2021/06/16

記憶喪失の男 19

  ミカエルとアスルがバルデスに案内されて別館に入ると、ホールの奥で立っている女性がいた。ブルネットの髪の少し太り気味の白人で、高級なスーツを着ていた。彼女はミカエルを見るなり、非難めいた口調で話しかけて来た。

「今迄何処に隠れていたのよ! 皆んなにどれだけ心配かけたか、わからないの!」

 英語だ。英語は理解出来た。理解出来ないのは、彼女が喋っている内容だ。ミカエルは困惑してバルデスを見た。バルデスが説明した。

「昨日、あんたがロス・パハロス・ヴェルデスと一緒に行ってしまった後で、ドクトラ・ダブスンに連絡を入れたんだ。また逃げられちゃ困るからな。朝一番に米軍のヘリでやって来たよ。」

 ミカエルはドクトラ・ダブスンなる人物を眺めた。金持ちらしいが、医者には見えない。ダブスンが近づいてきた。

「さぁ、一緒に帰るのよ。」
「何処へ?」

 ミカエルは本能的に彼女と行くのは嫌だと感じた。俺はこの女が嫌いだ。この女と一緒にしていたことも嫌いだ。この女と一緒に働いていた場所も嫌いだ。そこにいる”人々”も嫌いだ。ダブスンが苛々した表情で言った。

「家に帰るの! 貴方が生まれた研究所よ!」
「研究所?」
「そうよ。貴方はアメリカ政府が開発した組み替え遺伝子の・・・」

 ダブスンはそこで不意に言語を別のものに切り替えた。

「組み替え遺伝子の研究所の主要研究者なのよ。勝手な行動は国家反逆罪に問われるわ。既に2ヶ月も研究を放置したまま行方を晦ませて、上の方から怪しまれているの。貴方が反米国家に寝返ったのかと。」

 彼女はドイツ語で喋っている、とミカエルはぼんやり思った。俺はドイツ語も出来るんだ。北米の人間だったら、母語は英語だ。だけどスペイン語だって普通に話せる。
 バルデスとアスルを見ると、2人は彼とダブスンのやりとりを興味津々で見物していた。バルデスがアスルに尋ねた。

「何語を喋っているか、わかりますか?」
「海の向こうの言葉だろう。」

とアスル。

「あの女は彼の親族か?」
「違いますよ。所謂ビジネスパートナーってヤツです。」
「随分偉そうに喋っている。」
「彼女はいつもあんな調子です。ドクトル・アルストが逃げ出したくなるのもわかる。」
「ドクトル・アルスト?」
「貴方がたが、ミカエル・アンゲルスって呼んでいる、その男の名前です。テオドール・アルスト、英語じゃシオドア・ハーストです。ご存知なかったんで?」
「彼は思い出を忘れたと言っている。」

 バルデスがアスルを振り返った。その表情を見て、彼の驚きが本物だとアスルは知った。バルデスが確認した。

「本当に記憶喪失なんですか?」
「彼がそう言っている。」

 ミカエルはダブスンとのズレた会話に嫌気がさしてきた。ダブスンはしきりと彼がアメリカ政府お抱えの遺伝子学者で、軍の機密に関係する研究をしている重要人物だから早く帰国して仕事の続きに取り掛かるべきだと主張していた。ミカエルが2ヶ月間行方不明になっていた理由も、元気にしていたのかと案じることも、何一つ個人的なことは訊かなかった。ミカエルも彼女にエル・ティティの町の親切な人々の話を聞かせたくなかった。
 本名と職業はわかった。お尋ね者ではないらしいが、探している人間はいた。この女は俺を北の国へ連れて帰ろうとしている。しかし、俺は嫌だ。

「もう黙ってくれないか!」

 ミカエルは思わずダブスンに怒鳴りつけた。

「俺はこの国での暮らしが好きなんだ。ここへ何をしに来たのか、思い出せないが、ここに今の俺の暮らしがあるんだ。あんたなんか知らないし、遺伝子とか、研究とか、機密事項とか、そんなの知ったこっちゃないんだ。俺はここに残る。ほっといてくれ!」

 興奮していたのか、ドイツ語から英語、スペイン語を使っていた。自分では気づかなかった。ダブスンは、スペイン語が苦手らしかった。

「何? 今なんて言ったの、テオ。英語で言いなさい!」

 その時、本館の方角から物凄い爆発音が響いた。


1 件のコメント:

Jun Tacci aka ねこまんま さんのコメント...

シオドアの本名がやっと判明。
アスルとバルデスは傍観者に徹しています。

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