2021/06/17

笛の音 3

  パソコンデータの中には、彼が最後に見たものが入っていた。出かける前にロックした筈だったが、彼の行方不明が騒動になった時に、研究所が強引に解除したのだ。そして今はダブスンが設定したパスワードで開く。アクセスログを見たら、直近の1ヶ月は誰も見ていなかったので、シオドアはもう彼女には用がないだろうと判断した。自分で新たなパスワードを設定した。
 血液のD N Aデータは243人分あった。エンジェル鉱石は張り切って労働者の血液を販売したのだ。健康診断の結果はとっくに出ているだろうから、シオドアは病歴などは飛ばした。過去の彼が一番多く見ていたのは、7438・F・24・セルバ とタグを付けられた血液だった。セルバ共和国の女性で24歳、識別番号7438と言うことか、と彼はタグを読んだ。この女性のDN Aの何処が彼の興味を引いたのか。彼はゲノム表を読み始めた。彼女はセルバ共和国の先住民で、髪は黒、目も黒、肌は赤銅色、身長はそんなに高くない。D N Aしかないので測定出来ないが、長身になる因子ではなく、小柄で、太ってもいない。鉱山で働くには丁度良い体格なのだろうとシオドアは思った。筋肉もしっかり成長する因子を持っている。少しばかり脊椎に歪みがある。そう言う遺伝子だ。実際はどの程度症状が出ているのか不明。鉱山の労働に支障がない程度なのだろう。
 ここまでは至って普通の人間だった。だが、脳の形成に関する部分まで解析して、シオドアは画面をじっと見つめてしまった。前頭葉の組織を作る情報が、何か違う。彼は他の被験者のD N Aを数件出して比較した。被験者7438・F・24・セルバは他の労働者と脳の組織構造が違うことになっている。脳の病気なのか? それとも何か想像つかないことがあるのか? 彼は試しに彼自身のD N Aを出してみた。前頭葉形成の情報を呼び出して、現れた結果に愕然とした。
 シオドア・ハーストの前頭葉形成情報を表すD N Aは、被験者7438・F・24・セルバと極似していた。
 シオドアは画面から目を逸らし、暫く空を眺めた。ダブスンもエルネストも、彼は遺伝子組み替えで作られた人間だと言った。普通の人間よりも遥かに優秀な頭脳を持って生まれたのだ、と。それがこのことだろうか? 
 彼はアリアナ・オズボーンとエルネスト・ゲイルのD N Aも引っ張り出した。彼等のものは、少し違っていた。優秀な脳と言う点ではほぼ同じだ。しかし、この前頭葉の異質な情報は、アリアナにもエルネストにもなかった。これは何だ? この被験者の女性は、他の人間とどう違うんだ? 
 シオドアは、ふと気がついた。俺はこの人を探しに行ったに違いない。実物を見たいと思ったから? 否、そうじゃない。俺は・・・俺のルーツになるかも知れない遺伝子を持っている人に会いたかったんだ・・・。
 エルネストは、自分達の遺伝子はアメリカの大学で学ぶ優秀な学生達から集められたものだ、と言った。シオドアはそれらの遺伝子提供者に会いたいなどと思ったことがなかった。何処にでもいる天才達にわざわざ会いに行く必要などない。彼等は学会の情報機関誌やテレビや企業のウェブサイトに写真が出ている。プロフィールも公開されているもので十分だ。親と思ったことは一度もない。アリアナだってエルネストだって同じ思いだろう。
 だが、この中米の鉱山で働いている女性は、多分俺の”材料”なんかじゃない。だけど同じ遺伝子を持っているんだ。
 記憶を失う前のシオドア・ハーストが誰にも中米旅行の目的を言わなかったのは、彼の極めてプライベイトな行動だったからだ。仲間を見つけた気分を、研究所の人々は決して理解してくれなかっただろう。
 この特異な遺伝子は、セルバ人にしかないものなのか? セルバ人にはどんな特徴がある? ゴンザレスもリコもエル・ティティの住民も、皆んな普通の人間じゃないか。風変わりだったのは・・・
 シオドアは3人の大統領警護隊の将校を脳裏に浮かべた。リコが怖がっていた。バルデスも逆らわなかった。アンゲルス邸の私兵達も彼等の行動に何の疑問も抱かずに従っていた。純粋の血を持つセルバ先住民? 呪いで病気になった女性を助けたケツァル少佐。暗がりで読書をしていたロホ中尉。彼は”神様の荒魂”を麻袋に入れて歩いていたっけ。アスルは片手を前に出して門衛を従わせた。あれは、従えと言う合図ではなく、従わせるための動作そのものだったのでは?
 もう一度セルバ共和国に行って、被験者7438・F・24・セルバを探さなければ。
 ドアのブザーが鳴った。助手の1人が応対に出た。ダブスンだ。他人の研究室には博士と言えども中の人間に開けてもらわなければ入れない。その隙にシオドアはセルバ人のファイルを素早く閉じて別のファイルにすり替えた。

「今日は喧嘩をしに来たんじゃないわ。」

とダブスンが言った。彼女は新聞をシオドアの机の上に投げ出した。ヒシパニック系の新聞で、スペイン語で書かれている。

「私のスペイン語が出来る助手が教えてくれたのよ。セルバ共和国のエンジェル鉱石の経営者が交代したそうよ。ミカエル・アンゲルスが亡くなって、No.2のアントニオ・バルデスが経営権と会社の所有権を引き継いだ。今迄はスペイン系のアンゲルスが色々と研究材料の調達に便宜を図ってくれたけど、バルデスは現地の人間だから、交渉が厄介になるかもね。」

 現地の人間か。ダブスンが部屋から出ていくと、シオドアは新聞を手に取った。バルデスは大統領警護隊を警戒していた。セルバ先住民を恐れている様子だった。バルデスだってメスティーソだ。セルバ人に変わりない。だが純血種には何かがあるのだ。彼の主人だったアンゲルスは健康診断に託けて労働者の血液を北米の研究所に売っていた。自国の秘密を知っているバルデスにとって、それは許し難い行為ではなかったか。下手をすれば自滅しかねない自国の先祖への冒涜と思えた筈だ。だからバルデスは、故美術品密売組織のロザナ・ロハスからネズミの神像を買い取って、主人の寝室に置いたのだ。神様を汚せば呪いが降りかかると知っていた。彼の企は成功してアンゲルスは死んだ。恐らく、マリア・アルメイダが雇われる前に死んでいた。だがバルデスはネズミの神像の威力に恐怖し、回収出来なかった。主人の遺骸も運び出せないから、主人の死亡を公表して財産と実権を乗っ取ることも出来ない。困り果てていたところに、運よく記憶喪失の男が大統領警護隊と共にやって来た。バルデスは愛想良くケツァル少佐を邸に招き、まんまとお祓いと神像回収をさせたのだ。
 俺達は利用されたんだ。シオドアはいきなり笑い出し、研究室の助手達を不安にさせた。



1 件のコメント:

Jun Tacci aka ねこまんま さんのコメント...

原作を書いたとき、携帯電話やパソコンにあまり馴染みがなかった。
だから書き直しには原作にないものが色々出てくる。

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