2021/06/17

笛の音 2

  翌週からエルネストに連れられてシオドアは”研究所”へ通った。”研究所”は大きな軍事基地の敷地内にあり、軍関係者の住宅地やショッピングモールや娯楽施設も合ったので一つの町の様だ。シオドアやアリアナ、エルネストが住むアパートもその中に建っているのだ。ひょっとすると、とシオドアは思った。俺は本当の外の世界を知らないで生きてきたんじゃないのか? 同じ様に遺伝子組み替えで生まれた研究者達もこの中で暮らしているのだ。外の大学や企業に雇われた連中の方が幸せな筈だ、と彼は思った。自由だから、好きなことをして生きていける。彼等が実際は常に監視されていることを知ったのはずっと後のことだった。
 ”研究所”でシオドアは彼の研究室に案内され、助手達に紹介された。皆んな「ハースト博士は事故に遭って記憶喪失だ」と説明を受けており、同情の目で彼を見た。何を思い出せる訳でもなかったが、残されていた研究資料を見たら、内容は理解出来た。ゲノムの解析で頭を抱えている助手の後ろを通りかかった彼が、スラスラと問題点を指摘して解決法を教えると、彼等は一瞬彼が元に戻ったかと喜んだ。しかし、シオドアには「わかった」だけで、それを何の為にしているのか、何をどうしようとしているのか、研究の未来に関してはわからなかった。だから・・・
 シオドア・ハーストは、彼の研究室で彼の助手達の助手をして日々を過ごした。
 共同研究者だと言うメアリー・スー・ダブスンが頻繁にやって来て、彼にゲノムの解析やら数式の構築やら解析やらをやらせたが、シオドア自身の現状に変化を与えることは出来なかった。ダブスンは彼のそんな状況に苛立って、記憶喪失は我儘から来ているのではないか、と言い、シオドアは彼女と激しい口論になってしまった。
 助手達に引き離され、ダブスンは彼女の研究室へ引き揚げて行った。シオドアが彼の席に戻り、溜息をついていると、デイヴィッド・ジョーンズと言う助手がコーヒーを淹れて持って来てくれた。この男は気の良い男で、細かいところに心配りが出来る優しい人間だった。他の助手達からも好かれており、シオドアも少しだけ彼に気を許せた。

「貴方とダブスンの仲は、貴方が記憶を失う前とちっとも変わりませんね。」

と言ってジョーンズが笑った。シオドアはコーヒーを啜って、砂糖やミルクの量が彼の好みの具合であることに感心しながら尋ねた。

「俺は昔も彼女と喧嘩していたのかい?」
「ええ、毎日でしたよ。根っから馬が合わないって、貴方は仰ってました。」

 ジョーンズはシオドアより5歳年上だが、タメ口は利かなかった。

「俺は我儘だって、顔を合わせる度にダブスンが言ってるが、そうだったの?」

 助手達が顔を見合わせた。その意味を敏感にシオドアは感じ取った。

「そうだったんだね。怒らないから、正直に言ってくれないか。記憶を失う前の俺はどんな人間だった? エルネストみたいに天才風を吹かせる鼻持ちならない嫌な若造だったんじゃない? 気に入らないことがあったら、さっさと逃げ出して自分で解決策を講じようともしない卑怯者だったとか。誰かを好きになったことがなくて、だけど世界中が自分に平伏して言うことを聞くと信じる大馬鹿者だったとか。他人を思い遣ることもなくて、尽くしてもらうことが当たり前だと考えていた最低なヤツだったんだろ?」

 反論も否定もなかった。シオドアはコーヒーカップを机に置いて、頭を抱えて俯いた。

「そうだったんだ。だから、誰も探しに来なかったんだ。俺なんか死んじまった方が良いって思ってた人がいたんだ。」
「そんなことはないですよ!」

 ジョーンズが怒鳴った。 助手達も首を振った。

「貴方はこの研究所では最重要事項の研究者でした。上層部は必死で貴方を探していました。」
「私も中米の友人達からアメリカ人旅行者が関係する情報を可能な限り集めました。」
「ワイズマン所長もライアン博士も、何度も政府の外交筋に働きかけていました。」

 でも・・・と1人が呟いた。

「セルバ共和国政府は動いてくれなかったんです。」
「どうして?」
「わかりません。」
「貴方のあの国への渡航理由が不明瞭だと言う理由で、犯罪に関係しているのではないかと言いがかりをつけられたとか・・・」

 シオドアは顔を上げて助手達を見た。

「渡航理由? 俺は何をしにセルバ共和国へ行ったんだ?」

 助手達が互いの目を見交わした。だが、これは大統領警護隊の隊員達が目を見合わせた時と全く雰囲気が違った。警護隊の連中は互いの任務の確認を目でしていた。シオドアにはそう見えた。彼の助手達は、誰が話をするか、役目を押し付け合っていた。
 結局、ジョーンズがその役目を引き受けた。

「僕達は・・・貴方も含めて、この部屋の科学者達は、中南米のインディオのD N Aを分析していました。奥地の部族には他の村との婚姻が少なくて古代からの遺伝子情報が残っている事例が多くあります。人類の原型みたいなものです。それと、ダブスン博士が開発する能力発展促進剤を投与した人のD N Aがどう異なるかを比較していました。」

 シオドアの脳裏に、アントニオ・バルデスの声が蘇った。純血種のインディオを欲しがっている。 そう言うことなのか? 

「その、研究に使ったインディオのD N Aってのは、どうやって集めたんだ?」
「簡単ですよ。大企業で現地に鉱山なんかの地下資源の採掘場や農園を持っている会社に依頼するんです。そしたら企業の方で、従業員の健康診断をやってくれます。採血もしますから、それを買い取るんです。ちゃんと従業員の健康管理にもなります。合法に買い取っているんです。密輸ではありません。」
「鉱山って・・・」

 シオドアは試しに訊いてみた。

「セルバ共和国のオルガ・グランデも?」
「エンジェル鉱石って会社ですね。エンジェルは、スペイン語ではアンゲルスって発音でしたっけ。」
「それで、俺はわざわざその鉱山へ出かけて行ったのか?」

 ジョーンズも他の助手達も困った顔をした。

「貴方は何処へ行くとは告げていませんでした。エンジェル鉱石から買い取った血液サンプルをいくつか分析しているうちに、何故か大興奮して、血液の所有者の人間に会いたいと言い出したんです。」
「貴方はエンジェル鉱石に電話をかけて、労働者をアメリカへ寄越して欲しいと要請しました。」
「それは・・・」

 シオドアは苦笑した。

「我儘もいいところだな。」
「エンジェル鉱石からの回答は、血液採取した労働者は下請けの人間で、身元を調べるのに時間がかかるとのことでした。」
「あっちの国の”時間がかかる”は”やらない”と同じ意味です。」

 助手達の間で失笑が漏れた。シオドアも理解した。実直なゴンザレス署長だって面倒なことを頼まれたら、「時間がかかる」と断っていた。

「それで、俺は自分でその労働者を探しに行ったんだな?」
「そうです。この部屋の外には理由を言うな、と仰って。」
「ダブスンにも?」
「彼女には絶対に言うな、と。」

 研究を盗まれると思ったのかな、とシオドアは自分で呟いた。気がつくと、助手達が優しい眼差しで彼を見ていた。

「貴方が向こうでどんな目に遭われたのか、わかりませんが、無事に帰ってこられて良かったです。」
「こんなことを言うのは失礼だと承知の上で言わせてもらいます。貴方は人が変わった。すごく感じの良い人になって戻ってきた。」

 彼等は口々に「お帰り、テオ。」と言って彼の肩に手を載せたり、座っている彼を屈んでハグしたりして、やがてそれぞれの研究に戻って行った。
 シオドアは自分のパソコンを見た。彼を興奮させたセルバ人労働者のD N Aデータは、この中に入っているのだろうか。

 


 

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