2021/06/27

はざま 5

  アリアナ・オズボーンは自国の役所も外国の役所も彼女自ら出かけたことがない。だから雑居ビルの前にシュライプマイヤーが停車して、ここが文化・教育省です、と言った時は冗談かと思った。ボディガードの説明に従って入り口にいる女性軍曹にパスポートを提示し、リストに名前を記入した。軍曹がラップトップに彼女の氏名を入力し、入館パスを発行してくれた。シュライプマイヤーが彼女に続こうとすると、軍曹は彼を引き留めた。

「身分証。」
「今朝も来たじゃないか。」
「身分証。」

 顔パスは通じない様だ。アリアナは早く目的の人物に会いたかったので、彼に外で待機してくれと頼んだ。シュライプマイヤーは仕方なく承知し、少佐は4階です、と教えた。
 階段を上りながら、アリアナはケツァル少佐はどんな女性だろうと想像してみた。シオドアが女友達のことを話すような感じで彼女を語ったことはなかった。何か世話になった人、頼りになる人、と言う口振りだった。きっと大柄でどっしりとした体格の南米女だろう、と彼女は想像した。シオドアが惹かれるタイプではない筈だ。彼は細身でキリリっとした顔立ちでロングヘアの女性が好みだった。私みたいに・・・。
 3階と4階の中間の階段が折れ曲がったところにトイレがあった。トイレであることは分かった。壁の表示は M と H、一文字ずつだった。アリアナは立ち止まり、考えた。女性用はどっち?  そこへ下から上がって来た男性が彼女をチラリと見て、H のドアの向こうへ消えた。 そうか、hombre (男性)とmujer (女性)か! 空港のトイレ表示と違っていたので、迷ってしまったのだ。空港では caballero (紳士)と dama(淑女)だった。彼女は女性用に入った。昂った気分を鎮めるために化粧直しをしたかった。
 トイレの中は清潔だった。掃除が行き届いており、開発途上国のトイレは汚いと言う彼女の偏見を払拭してくれた。綺麗な鏡の前に立った時、後ろの個室から水を流す音が聞こえた。先客がいた。アリアナがパフで顔を軽く叩いていると、個室から若い女性が出て来た。細身でキリリっとした顔立ちの先住民で、黒いロングヘアは艶々だった。背はアリアナほど高くなかったが、アメリカ女性の平均身長より低くもない。カーキ色のTシャツとジーンズ姿で、アリアナの隣に立って手を洗った。ラフな服装だが、職員だろうか、客だろうか、と彼女はぼんやり考えた。綺麗な人だわ。

「何でしょうか?」

 突然女性の方から声をかけて来て、彼女はびっくりした。ドキドキした。向こうは直接こっちを見ている。アリアナはハンサムな男性に声を掛けられた様な気分で、狼狽えた。思わず英語で応じた。

「考え事をしていました。貴女を見ていたのではありません。」
「遠くから来られたのですか?」

 アリアナは気が動転していたので、相手が英語に切り替えたことに気づかなかった。

「ええ・・・あの、ケツァル少佐に面会に来ました。彼女は席にいますか?」
「今は席にいません。」

と女性。

「戻られるまで待ちます。」
「アポは取っておられますか?」
「いいえ、今日、この国に来たばかりです。」

 アリアナはパスポートを出した。目の前の女性はこの役所の職員だろうと見当が付いた。女性は彼女のパスポートを開いて眺め、直ぐに返してくれた。

「4階は考古学関係の部課です。遺跡発掘の申請ですか、それとも見学ですか?」
「違います。」

 アリアナは本当の用件を無関係の人間に言いたくなかった。少し迷ってから、研究所のI Dを出した。

「これをご覧になれば、少佐は私に会って下さる筈です。」

 女性は関心なさそうに彼女の身分証を見て、それから手を振った。

「ご案内します。ついて来なさい。」

 トイレから出て4階へ上がると、広い空間で大勢の職員が事務仕事をしていた。大声で電話相手に怒鳴っている男性や、カウンターで職員相手に喋りまくっている女性、旧式のタイプライターを叩いている初老の職員、その横のパソコンで何やらCGを用いて遺跡の立体地図を表示して数人に見せている女性・・・。 想像したより賑やかな場所だった。
 アリアナを案内してくれた女性は、カウンターの奥に目を遣り、すぐにアリアナに向き直った。

「アンティオワカ遺跡は既に受付が終了しています。見学だけでしたら、グラダ大学考古学部に申し込めばすぐに許可が下りるでしょう。こちらから連絡を取りましょうか?」

 何のことだろう? アリアナは一瞬ぽかんとした。意味がわからない。しかし、女性がウィンクした。イエスと言え、と言われた気がした。彼女は言った。

「ええ、お願いします。」

 女性はアリアナをカウンターの中に招き入れ、一番奥の区画へ案内した。書類が山積みされた机が5つ集まっており、男が3人いた。
 1人は女性と同じカーキ色のTシャツにジーンズ姿の若い男性で、まだ幼く見える顔立ちだった。もう1人はベージュの開襟シャツにジーンズで、火が点いていないタバコを咥えていた。ゲバラみたいな髭を生やしているが、これも若い。この2人はパソコンで作業中だった。最後の男は、ちょっと異なる雰囲気を漂わせていた。黒いTシャツの上に白い麻のジャケットを着込み、白い麻のズボンを履いている。靴も白い革靴だ。この中年の男性と若い男は先住民の顔立ちだった。髭面はセルバ人の平均的な人種メスティーソだろう。白人の要素が濃い顔立ちだ。
 ジャケット姿の男が近づく2人の女性を見て、椅子から立ち上がった。右手を左胸の心臓のあたりに置いて、頭を下げた。

「今日もご機嫌麗しく・・・」

 アリアナは彼のスペイン語を全部は理解出来なかった。ただ、最後に彼がケツァル少佐と言ったのは聞き取れた。
 え? と彼女は案内してくれた女性を見た。女性は、男の挨拶に返礼することもなく、”S ・Q・ミゲール”とネームプレートが置かれた机の前に座った。彼女は敢えて英語で言った。

「今日は何の御用です、セニョール・シショカ。私はお客様をお待たせしたくありません。1分以内に用件を言わないと、中尉にカウンターの外へ叩き出させますよ。」
 
 アリアナは、男が自分の方を見たので、ドキッとした。男の目は黒く冷たかった。初対面なのに憎悪さえ感じられた。何なの、この男? 気持ちが悪い・・・。
 男が、女性に向き直った。相手の意を汲んだのか、これも英語で答えた。

「オクタカス遺跡の事故の件についての報告を、建設大臣が詳しくお聞きしたいと仰っています。」

 女性が髭面の男性を見たので、髭面の男性が答えた。これも英語だ。

「事故報告はエステベス大佐に提出済みです。大臣は大佐からお聞きになればよろしいかと。」
「大臣は少佐から直接お聞きしたいのだ。」
「私は忙しいのです。」

 少佐と呼ばれた女性は机の上の書類の束とUSBを手に取った。

「見ていない現場の話を大臣に語る暇はありません。語って大臣に理解出来るとも思えない。」

 尊大な態度で彼女は言って、中尉と呼ばれた髭面の男に声をかけた。

「セニョール・シショカがお帰りですよ、中尉。」

 髭面中尉が立ち上がったので、シショカと呼ばれた男も渋々歩き出した。男性2人がカウンターの向こうへ出て行き、階段を下りて姿を消す迄、少佐はその後ろ姿をじっと見つめ、若い男性は全く無関心を装って仕事を続けていた。アリアナはどうして良いのかわからず、その場に立ち尽くしていた。
 少佐が書類とU S Bを持ったまま立ち上がった。

「お待たせしました、こちらへどうぞ。」

 彼女が指したのは、”エステベス大佐”と書かれたプレートが付いたドアだった。


1 件のコメント:

Jun Tacci aka ねこまんま さんのコメント...

アリアナとケツァル少佐の初対面の場がトイレと言うのも変わってて良いと思わない?

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