2021/06/28

はざま 12

  グランド・ナショナル・ホテルのスィートルームで、アリアナ・オズボーンは寝る支度をしていた。バスローブから寝間着に着替え、眠前の化粧水を顔にかけたところで喉の渇きを覚えた。居間スペースに出ると、ソファに横になっていたマハルダ・デネロス少尉が顔を上げた。護衛の役に就いているので、彼女は昼間の服装のままだ。明日の朝、着替えを買ってあげようとアリアナは思った。
 明るくて素直な女の子だ。アリアナはシュライプマイヤー達がいることを理由に、辞退する彼女を半ば強引に夕食に同席させた。そして彼女の仕事について訊いてみた。デネロスは大統領警護隊文化保護担当部の士官として配属されてからまだ7ヶ月しか経っていないと言った。初めての野外任務は、少佐以下3名の先輩士官と共に隣国の遺跡保護活動の視察だった。とても楽しかった、とデネロスは言った。休憩時間に皆んなで隠れん坊したり、記念の写真撮影をしたり、マーケットで買い物をしたり、と普通の学生の遠足みたいな体験をしたそうだ。
 アリアナは聞いていて羨ましく感じた。彼女は一緒に育った研究所の2人の仲間、シオドアとエルネストとそんな風に遠くへ出かけて遊んだ経験がなかった。遠出の時は大人達が一緒で、護衛がしっかり見張っていた。それにシオドアもエルネストも意地悪だった。彼女の物を隠したり、壊したり、取り上げた。成長すればどっちが彼女と寝るかで揉めた。彼女の意思は無視だった。外の家庭に引き取られた遺伝子組み替え子達とも友達になれなかった。全員が、ワイズマン所長のお気に入りになろうと蹴落とし合うライバルだった。
 デネロスがナプキンで簡単な人形を作って指で動かして見せた時、彼女はふと思った。こんな娘が妹だったらなぁ・・・と。

「寝てて良いのよ。ちょっと喉が渇いただけ。」

 アリアナが囁くと、デネロスは頭を枕に戻した。その時、デネロスの携帯電話にメッセージの着信があった。少尉は素早く画面を見た。緑色の猫のアイコン・・・ケツァル少佐だ。

ーードクトラが持っているドクトルのファイルとUSBを破棄せよ。

 デネロスは枕に頭を置いたまま、冷蔵庫からミネラルウォーターの瓶を取り出すアリアナの背中を見た。上官に了解と返事を送り、直ぐに既読になったことを確認して受信メッセージを削除した。
 アリアナが水を飲んで寝室に戻る迄目を閉じていた。ドアが閉まると、デネロスはソファから下りて忍足で寝室の前へ行った。ドアの向こうの気配を伺い、アリアナが寝たと確信すると、居間に置かれたアリアナの私物を順番にチェックした。ファイルとUSBは昼間アリアナが文化保護担当部を訪問した時、ケツァル少佐が手渡したものだ、とわかっていた。ホテルの部屋に入ってから、アリアナはずっとファイルに目を通していた。夕食の為に最上階のレストランへ行く際に、彼女は居間にある金庫にそれらの書類を入れた。部屋に戻ってからは、デネロス相手にお喋りをするのに忙しくて、金庫を開けていない。
 デネロスは金庫の扉を見た時、どうやって解錠しようかと悩んだ。A4ファイルが入る大きさで、難しい物ではないが、開けるには部屋の電子キーカードが必要だ。部屋のカードは何処? と室内を探し回ったのだ。
 居間になければ寝室だ。アリアナのハンドバッグの中が一番怪しい。そっとドアノブを回して寝室のドアを開いた。アリアナは寝息を立てて眠っていた。ハンドバッグは窓際の机の上だ。デネロスはしなやかに室内に入り込み、机のそばへ行った。バッグの中を漁るのは泥棒になった気分だった。バッグ内のポケットからカードを引っ張り出した時は、ちょっと汗をかいていた。
 少佐だったらドクトラの目を見つめて、「金庫を開けて下さい」と命令して終わりなのになぁ・・・
 まだ修行中の身の彼女は静かに寝室を出て、ドアを閉め、金庫に向かった。タッチパネルにカードを当てると、扉がカチッと音を立てて開いた。デネロスは書類を出した。USBもあった。トイレで流すには枚数が多過ぎる。スィートルームには簡易キッチンがあった。客がたまに出張シェフを呼んで、料理の最終行程をさせる場所だ。デネロスはそんな贅沢に縁がない育ちだったが、キッチンのコンロを見て、シンクの下を覗いた。ミルクパンとスキレットがあった。
 パチっと言う音でアリアナが目覚めた時、微かに焦げ臭い匂いがすると感じた。彼女は体を起こした。暫くぼんやりベッドの上に座っていた。生まれてからこの日迄万全を期したセキュリティ体制の元で育って来たので、非常事態を判別する人間の能力が少々劣っていた。
 焦げ臭い。
 突然、嫌な予感に襲われ、彼女はベッドを飛び出した。寝室から居間に通じるドアを開けた。居間に何かが焦げる匂いが漂っていた。彼女は寝室に引き返し、ハンドバッグから携帯電話を出した。ワンタッチでシュライプマイヤーに掛けた。

「ケビン、来て、火事よ!」

 彼女の視野に、キッチンで動くものが入った。電話を持ったままアリアナはキッチンへ向かった。カウンターの向こうにデネロスが立っていた。アリアナを見て、苦笑した。

「起こしてしまいました?」

 アリアナはコンロに載っている不思議な物を見た。スキレットの上に逆さまになったミルクパンが載っかっている。2つの鍋の隙間から煙が漏れていた。

「何をしているの?」

 その時、ドアチャイムが鳴った。シュライプマイヤーだ。アリアナはドアへ行った。ドアを開けると消化器を持ったもう1人のボディガード(クルーニーとか言ったっけ?)と拳銃を持ったシュライプマイヤーが入って来た。

「火事は?」
「キッチンで・・・」

 アリアナはキッチンを振り返り、そこに誰もいないことに気がついた。デネロスは何処へ行った? クルーニーが照明を点けた。スィートルームの空気が微かに澱んでいた。シュライプマイヤーはキッチンに行き、コンロの上のスキレットに被さっていたミルクパンを退けた。黒くなった灰の塊があった。彼が片手でそばにあったスプーンで突っつくと、灰の塊は脆くも崩れ去った。その中に溶けかけたプラスティックの破片があった。
 クルーニーが室内を見回し、アリアナに尋ねた。

「セルバ人の女は何処です?」

 シュライプマイヤーは居間を振り返った。彼等が入室した時点で、室内にアリアナの姿しかなかった。あのセルバ人は寝室に隠れたのか? アリアナがキョロキョロと室内を見回し、不意に重大な発見をした。

「金庫が開いているわ!」

 3人のアメリカ人の注意が開け放たれた金庫に向けられた時、玄関ドアの前にいきなりデネロスが出現した。シュライプマイヤーがドアの開く気配で振り返ると、彼女は既に部屋から出て行くところだった。

「待て!」

 彼は駆け出した。デネロスが全力疾走でエレベーターホールに走り、ボタンを手当たり次第叩いた。シュライプマイヤーが追い着いた時、エレベーターの一基がドアを開いた。彼は女を捕まえようとした。デネロスがするりと身を交わし、彼をエレベーターの中に押し込み、走り去った。シュライプマイヤーは閉じかけたドアから無理やり体を出して、再び彼女を追いかけた。デネロスは廊下の突き当たりのトイレに駆け込んだ。
 女性用トイレだ。シュライプマイヤーは躊躇せずに中へ入った。個室は全部開いていた。何処にもデネロスの姿はなかった。
 ここは18階だ。
 シュライプマイヤーはトイレから出て、アリアナの部屋に戻った。相棒が無言で守備を問うてきた。シュライプマイヤーは首を振った。そしてアリアナに何を盗られたのか尋ねた。

「書類よ。それにUSB。 今朝、ケツァル少佐がくれたの。」
「それなら・・・」

とクルーニーがキッチンを指差した。

1 件のコメント:

Jun Tacci aka ねこまんま さんのコメント...

クルーニーの名前をすぐ忘れるんだなぁ・・・

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