2021/06/17

笛の音 1

 彼はシオドア・ハーストに戻った。彼がダブスンに連れられて研究所に帰ると、既に知らせを受けていた人々が温かく出迎えてくれた。記憶喪失の彼をまるで腫れ物に触るように優しく労ってくれた。エルネスト・ゲイルと名乗る、色白でぽっちゃりした体型の眼鏡をかけた若い男が、彼の”弟”だと名乗った。

「弟と言っても、基礎の卵細胞が同じ女性のものだったと言うだけなんだよ。 僕等はここで優秀な頭脳を持つ選ばれた人々の遺伝子を抽出して組み合わせて生まれた特別な人間なんだ。超が付く特別優秀な脳の持ち主なんだよ。」

 エルネストはシオドアを住居だった豪華なアパートに案内して、記憶を失う前の彼がどんな育ち方をしたのか、どのように生活していたのかを説明した。シオドアは指紋登録された鍵や、手を振るだけで点灯する照明や、一人暮らしなのにキングサイズのベッドや、住宅展示場のモデルルームみたいにピカピカに掃除が行き届いたキッチンやバスルームを眺めた。何も思い出せなかった。クローゼットの中の衣装も靴も、書棚の書籍類も心に響かない。だが、少し気になることを見つけた。

「書類棚を誰かが触った跡があるな。」
「ああ・・・」

 エルネストが意味深に微笑んだ。

「君の不在が長かったので、君が研究していた資料を研究所に移動させたんだよ。不用心だからね。2、3日すれば職場へ君を連れて行く。そこで何か思い出してくれたら良いけど。」
「俺は何を研究していたんだ?」
「人間の遺伝子だ。潜在能力を引き出す為に眠っている遺伝子の活性化を促進させる薬剤などの研究だ。」
「君も同じ仕事をしていた?」
「うん。僕は君が作り出す薬の実用化の研究だ。」
「潜在能力と言うのは、つまり・・・」

 シオドアは考えた。何も浮かんでこない。

「アスリートの能力ってことかな? それとも芸術家?」
「そんなところかな。」

 エルネストが曖昧に笑った。何か重要なことをはぐらかされている感じで、シオドアはこの男に好感が持てなかった。
 女性が1人部屋にやって来た。若くて少し赤みがかったブロンドの綺麗な人だった。彼女はシオドアをハグして頬にキスをしてくれたが、やはり思い出せなかった。

「アリアナ・オズボーン。僕らの”妹”。」
「すると、この人も遺伝子組み替え人間?」

 アリアナがちょっと顔を曇らせた。多分、そんな風に言われるのが嫌なのだ、とシオドアは感じた。しかし彼女は否定出来ない。事実なのだろう。エルネストが説明を続けた。

「僕等の仲間は20人ほどいるんだ。でも優秀なのは、今ここにいる3人だけ。他の子供は皆んな幼稚園の頃になると科学者達の家庭に養子に出された。教育は僕等と一緒に受けたけど、研究所で仕事を貰えたのは数人だ。あとは大学や外の機関で働いている。」
「俺達は誰かの養子じゃないの?」
「僕等は研究所の子供だ。」

 エルネストが胸を張った。アリアナが言った。

「強いて言えば、ジョゼフ・ライアン博士が私達の父親代わりね。彼が私達をどう教育するか、何をさせるかを決めたのよ。」

 父親代わり? シオドアの脳裏に浮かんだのは、ゴンザレス署長の豪快な笑顔だった。見ず知らずの男を自宅で世話をして、部下達と一緒に汗水流して小さな町の治安の為に昼夜働いているあの男。
 涙が出そうになって、シオドアは慌てて話題を変えた。

「アリアナ、君は何をしているの?」
「私は遺伝病の研究よ。病気の因子は発見されているけれど、それがどうして病気を引き起こす因子になるのか、そう言うことを研究しているの。」
「治療の為だね?」
「・・・ええ。」

 少し間があった。それもシオドアは気に入らなかった。恐らく以前の俺は全て知っていた。だが思い出したくないことなんだ。凄く嫌なこと。だから、コイツらも現在の俺には言わないんだ。
 浮かない顔をしていることは、エルネストにもアリアナにもわかった。

「君は病気なんだよ。」

とエルネストが優しく言った。

「行方不明になっていた間のことを聞かせてくれないかな。どんな人達と暮らしていたんだい?」

 コイツらには言いたくない。突然、シオドアはそう感じた。大切な思い出を汚されるんじゃないか、そんな考えが頭を掠めた。研究所の人々に、セルバ共和国で会った人々、見たこと聞いたこと、一切合切喋ってはならない。
 シオドアは寝室に歩き出した。

「くたびれたから、もう寝るよ。」

 エルネストとアリアナが顔を見合わせた。どちらともなく肩をすくめ合った。

「愛想がないところは、昔のまんまね。」

とアリアナが言った。シオドアは振り返らずにドアを閉めた。


1 件のコメント:

Jun Tacci aka ねこまんま さんのコメント...

退屈な章だが書き直しは比較的楽に出来た。

アリアナがアリシアになっていたので訂正。
これからも出てくるかな。

第11部  紅い水晶     15

 在野の”ヴェルデ・シエロ”が大巫女ママコナに直接テレパシーを送ることは不敬に当たる。しかしママコナが何か不穏な気を感じていたのなら、それを知っておかねばならない。ケツァル少佐は2秒程躊躇ってから、大統領警護隊副司令官トーコ中佐に電話をかけた。その日の昼間の当直はトーコ中佐だった...