待つ身は辛い。狭い隠れ場所から出るのは用を足す時だけ。水場はゲリラに見張られている可能性があるので近づかないように、とロホから釘を刺されていた。小さな水筒の水を大切に、口の中を湿らせる程度に飲み、干し肉を齧ると言うよりしゃぶった。退屈を紛らわせるのは、遺伝子マップだった。石の上に石で図を描いていった。ジャガーに変身する遺伝子とは、どんなものだ? サンプル”7438・F・24・セルバ”の情報は、これも含んでいるのか? 過去に捨てた筈の遺伝子分析が退屈凌ぎに役立った。
2度目の夜は寒かった。標高がそこそこあるので夜間は気温が下がる。石の床が冷たかった。昔の人はここにハンモックをぶら下げたのか? この天井の高さでは無理だろう。きっと木でベッドを作ったに違いない。
眠れないでいると、小屋の外で人の話し声が聞こえた。追手か? シオドアは壁に身を寄せ入り口から覗かれてもすぐには見られない様に試みた。話し声は次第に大きくなってきた。大勢がてんで勝手に喋っている様だ。男の声、女の声、子供らしい甲高い声もする。何だか楽しそうだ。棄てられた村で真夜中に人が集まるのか?
シオドアは不思議に思い、そっと小屋から顔を出してみた。誰もいなかった。声はパタリと止み、それっきり聞こえなくなった。風が草の上を吹き抜け、ザワザワと葉が鳴っただけだ。
シオドアは空を見上げた。雨季の空は雲に覆われ星は見えなかった。さっきの賑やかな声は何だったのだろう。幽霊なのか?
小屋に戻り、寒さに震えながら再び声が聞こえて来るのを待つ内に、いつの間にか膝を抱えて座ったまま眠りに落ちた。
ビリリっと空気が震えた感触がして、シオドアは飛び起きた。危うく低い天井に頭をぶつけるところだった。床の一角に太陽の光が当たっていた。朝が来ていた。
シオドアは小屋から顔を出した。雲が去って青空が見えていた。空気が冷たく肌に気持ちが良かったが、空腹で喉も渇いていた。
さっきの空気の震えは何だったのだろう? 幽霊の悪戯か? シオドアは用心深く外に出た。死者の村の周辺には誰もいない様だ。水を探しに行こう、と思った。まだロホも少佐も来ないだろう。ゲリラに見つかりさえしなければ、少しの間留守にしても大丈夫だ。彼は身を低くして斜面を歩いた。沢が出来る地形を考え、滑らないように足元に注意しながら森へ近づいて行った。
茂みの中から水音が聞こえた。水が流れている。シオドアは嬉しくなり、一瞬注意が散漫になった。低木を押し分けた途端、目の前に迷彩色の服が見えた。
カンパロだ!
固まってしまったシオドアに、向こうも咄嗟に腰だめでアサルトライフルを向けた。迷彩色のヘルメットの下は、ちょっと丸味のある顔にゲバラ髭、目元に傷はない。5秒後、同時に相手が誰だかわかった。
シオドアは全身の力が抜けて、その場にヘナヘナとしゃがみ込んだ。
「ステファン中尉・・・君にここで出会うとは・・・」
向こうも銃口を下に向けた。息を吐いて囁いた。
「ドクトル、もう少しで撃つところでした。」
ステファン中尉の背後から音を立てずにケツァル少佐が姿を現した。彼女も迷彩服で同色のヘルメットを被っていた。アサルトライフルを持っている姿は初見だ。シオドアを眺め、それから周囲を見た。低い声で尋ねた。
「ドクトル、ロホと出会いませんでしたか?」
「会ったよ。彼が俺をゲリラのキャンプから助け出してくれたんだ。」
少佐がステファン中尉と目を合わせた。そして直ぐにシオドアに向き直った。
「何時のことです?」
「2日前の夜。俺がカンパロに捕まったその夜さ。」
シオドアは斜面の上の方を振り返って指差した。
「あの上に棄てられた古い村の跡があって、そこに案内された。俺は彼の言いつけを守って昨日1日村の跡に隠れていたんだ。彼はオルガ・グランデ基地へ向かった。君と合流するつもりだった筈だけど・・・」
物凄く嫌な予感がした。その予感が的中したことを、少佐が教えてくれた。
「彼は基地に戻っていません。貴方が誘拐されたとゴンザレス署長から連絡を受けて、私は電話で彼に現地の偵察を命じました。本来なら、昨日の昼迄に戻っている筈でした。」
「俺のせいだ。」
シオドアは泣きたくなった。あの優しい若者の身に良くないことが起きたのは明白だ。
「彼はジャガーに変身して偵察に来たんだ。そして偶然俺を見つけて、敵の隙を突いて助け出してくれた。変身したら酷く疲れると言っていたんだ。だから俺は足手まといにならないよう、ここに残って、彼は基地へ報告の為に戻ると言って、隠れ家から出て行った。まだ基地に戻っていないのだとしたら・・・」
少佐が溜息をついた。
「変身する必要があったとは思えません。ナワルは無闇に使うものではないのです。ロホはナワルを使う方が効率が良いと考えたのでしょうが、それなら基地に帰り着く迄そのままの姿を保っていれば良かったのです。」
「ジャガーの姿では俺と話せないだろう?」
多分、ケツァル少佐もステファン中尉もジャガーに変身出来るんだ、とシオドアは確信した。少なくとも少佐は変身が自分達の体にどんな影響を与えるか理解している。
「君達はロホが戻らないから探しに来たのかい?」
「スィ。」
「勿論貴方の救出も目的です。」
少佐の相変わらずの愛想なしの返事を、中尉が慌ててフォローした。そして少佐に提案した。
「少し休憩しましょう。ドクトルが隠れていた村の跡へ行きませんか。」
ケツァル少佐は斜面を見上げて、不満そうな顔をした。
「あそこへ行くのですか?」
シオドアは彼女が嫌そうに呟くのを聞いた。
「亡者がいっぱいいますよ。」
ステファン中尉がシオドアの目を見た。 え? シオドアはびっくりした。今、俺に何か言おうとしたのかい? 中尉が頬をぽりぽりと掻いた。
「ドクトルが平気なのですから、大丈夫ですよ。」
もしかして、少佐は幽霊が見えているのか? 彼女は幽霊が怖い? 悪霊は平気なのに? ステファン中尉はちょっと焦れた。 シオドアに手を差し出して立たせると、少佐に手を振って、来いと合図した。シオドアは少佐の為に少しだけ時間稼ぎをすることにした。
「実は水汲みに来たんだ。近くに水場はないかな?」
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ケツァル少佐の弱点 何もしない幽霊が怖い。
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