2021/06/13

記憶喪失の男 9

  ホールは100人でパーティーを開ける広さがあった。吹き抜けの天井、それを囲む円形の回廊、中央に階段、2階の部屋は回廊の半分を囲む様に並んでいる。ホールの庭に面した大きな窓は全て開放されていた。空は雲ひとつなく晴れ渡り、太陽が眩しい。それなのにホール内は冷りとして、ジメジメした空気が満ちていた。薄暗く澱んだ空気だ。ミカエルは屋内に入って1分も経たぬうちに外へ出たくなった。落ち着かない。頭の上から踏んづけられているような圧迫感。窓の外の薔薇の植え込みで花が風に揺れているのに、ホールには風がない。喉を締め付けられるような感覚までしてきた。息が苦しい。
 少佐を見ると、彼女は2階の回廊を眺めていた。2階に何かあるのか? アンゲルスがいるのか? 

「離れに朝食を用意しています。ご案内しましょう。」

 バルデスの声でミカエルは我に帰った。振り向くと、驚いたことにバルデスの額に汗が浮かんでいた。唯1人彼について入って来ていたボディガードも真っ青な顔をしていた。この屋敷の人間もこの場所に居心地の悪さを感じているのか。
 少佐だけが何も感じないのか、平気な顔をしてバルデスに話しかけた。

「立派な家ですね。2階も見たいのですが、上がってよろしいですか?」

 バルデスが強い勢いで首を振った。

「いけません。上階は主人の個人的なスペースです。許可なく客を入れることは許されておりません。」

 すると少佐はそれ以上我を通さずに素直に彼の誘いを受け入れた。
 母屋から外に出て直ぐにミカエルの呼吸は楽になった。乾いた風が心地よく、気分も良くなった。
 アンゲルス邸の別館は母屋の半分の大きさで、やはり白亜の建物だった。こちらは食堂に観葉植物がたくさん置かれ、リラックス出来る空間だ。テーブルの上に豪華な朝食が用意されていた。

「セニョール・アンゲルスのご家族は何処にいらっしゃるのですか?」

 引かれた椅子に座りながらケツァル少佐が尋ねた。バルデスが、主人は独身です、と答えた。彼は少佐の向かいに座り、ミカエルは丸テーブルの少佐の左側に座った。正面が空いているが、ボディガードが座る筈がなく、空席となった。ミカエルは、リコを連れてきて食べさせてやれば良かったな、とぼんやり思った。もっとも、あの男はバルデスにビビって座りもしないだろうけど。
 ミカエルはゴンザレスがしていた様に食前のお祈りをした。バルデスも体裁があるのか、一緒に祈るふりをしたが、少佐は知らん顔だ。お祈りが終わるまで待ってくれていたのかと思ったら、終わった後も食事には手をつけなかった。ミカエルは遠慮なく食べることにした。バルデスは毒なんか入っていないとアピールする目的で、卵料理やコーヒーに手をつけた。
 少佐がここへ来た目的の用件に入った。

「セニョール・アンゲルスは骨董品収集の趣味をお持ちですか。」
「ノ。主人は古いレコードを収集していましたが、貴女が守ろうとされる古代美術品の類に興味は持っていませんでした。」

 ミカエルはパンケーキを食べながら思った。何故過去形で喋るんだ?
 少佐が質問を続けた。

「貴方は? セニョール・バルデス。」
「私は芸術より株の方が面白い。」

 少佐が写真を出した。エル・ティティの町でミカエルやゴンザレスに見せた女の写真だ。

「この女性と面識がありますか。」

 ミカエルは我慢出来ずに口を挟んだ。

「俺も訊かれたけど、この人は誰なんだ?」
「ロザナ・ロハス。」

とバルデスが答えた。

「闇取引が主な仕事の古美術商。主に遺跡の盗掘品を金持ち相手に売り捌く女だ。」

 彼は少佐にちょっと微笑みかけた。

「貴女の天敵ですな、少佐。」
「ロハスを知っているってことは、あんたは彼女と面識があるんだな。」

 バルデスがミカエルをジロリと睨んだ。ケツァル少佐が咳払いして、2人の男の注意を自分に向けさせた。バルデスが彼女に言い訳した。

「ロハスは、私に客を紹介してくれと言って来たんです。最初はまともな画商のフリをしてね。」
「品物を見せましたか。」
「私が絵なのか彫刻なのかと尋ねたら言葉を濁したので、ヤバい品物だなと感じました。品物は見ていません。」
「彼女を誰かに紹介しましたか。」
「ノ。」
「彼女が他の人と接触した噂は聞いていませんか。」
「ノ。」
「貴方が彼女と会ったのは何時のことですか。」
「はっきり覚えていないが、半年前かな。」
「セニョール・アンゲルスは彼女に会いましたか。」
「私は会わせた記憶がないが、私の知らない場所で会ったかも知れない。会ったと言う話を主人から聞いたことはありません。」

 少佐がいきなり立ち上がったので、男達はびっくりした。彼女はテラスへ出る掃き出し窓まで歩いて行った。

「庭が素晴らしいので見学させて下さい。」
「構いませんが・・・」

 明らかにバルデスは当惑していた。このオルガ・グランデの実力者は他人のペースに乗せられることに慣れていないのだ。彼女がミカエルを振り返って、ごゆっくり、と言って外へ出て行った。バルデスが慌ててボディガードに命じた。

「少佐から離れるな。」


1 件のコメント:

Jun Tacci aka ねこまんま さんのコメント...

ここでの少佐は供された食事に手を出さない。
食欲旺盛な人だが、いつ食べるかはちゃんと計算している。

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