2021/06/19

笛の音 10

  シオドアがメキシコに行きたいと言ったら、周囲の人間は猛反対した。無理もない。中米で行方不明になって2ヶ月、やっと戻って来れば記憶喪失で研究が進まない。サポート役の助手が傷害事件を起こして逮捕された。それも原因不詳だが中米が関わっている様だ。

「私はセルバもメキシコも耳に入れたくない!」

とワイズマン所長が怒鳴った。役員会の席上だ。シオドアも記憶が戻らぬまま出席させられていた。その席で申請を出したら即決で却下されたのだ。

「まだ旅行出来る状態じゃないでしょ。」

とアリアナ・オズボーンが言った。どこが?とシオドアは思った。健康状態は全く問題がない。この研究所での過去の記憶が戻らないだけだ。社会常識はあるつもりだ。

「じゃぁ、いいです。申請を取り下げます。」

 シオドアはあっさり引き下がり、会議は次の月初めから開始される実験へと議題が移った。陸軍の兵士20名ばかりに薬剤を与えて効果を見る、と言うものだ。何の為にする実験なのかシオドアは分からなかったし、興味がなかった。
 午後、陸軍の犯罪捜査局からジョーンズに会って欲しいと連絡があった。ジョーンズは基地内の病院に収容されていた。護衛のシュライプマイヤーと一緒に面会室で会ったが、ジョーンズは顔見知りのボディガードも上司のシオドアも認識出来なかった。捜査官は面会によってジョーンズに何か変化が起きるかと期待したらしい。シオドアが「ドラッグですか」と尋ねたら、「精神疾患でしょう」と応えた。

「英語を喋らないので、ヒスパニック系の職員に通訳させようと思ったのですが、スペイン語でもない。それで、例の博物館のオーナーにジョーンズの言葉を聞かせたら、マヤ語で笛が鳴っていると呟き続けているそうです。」
「マヤ語・・・」

 夕方、アパートに帰って机の引き出しに入れた土笛を出してじっくり眺めてみた。まだ臭い。臭いが、笛だ。ジョーンズはこれを吹いたのだろうか。これに何か未知の麻薬でも入っているのでは?
 電話がかかって来た。アリアナ・オズボーンから夕食の誘いだった。彼は笛を引き出しに仕舞い、彼女とのデートに出かけた。
 同じ卵子提供者を持つ”妹”と言っても、D N Aを分析すれば従姉妹ほどの繋がりもなかった。ワイズマンもライアンも人間のD N Aを徹底的に分解して組み直したのだ。生命への冒涜だな、とシオドアは思った。多分、記憶を失う前はそんなことを考えなかっただろう。言われた通りに研究して、期待される成果を上げ、思い通りに結果が出なければ助手に当たり散らす。そんな人間だったのだ、俺は。
 アリアナと食事をして、アパートに戻ってベッドで過ごした。愛がなくても欲求があれば女性とすることをする。アリアナも同じだろうと思った。2人は以前もこんな関係だったのだ。他に友達がいないし、研究所も咎めない。もしかすると、遺伝子組み替え人間同士の子供が出来ることを期待しているのかも知れない。
 こんな生活から早く逃げ出したい。
 隣で疲れて眠っているアリアナの寝顔を眺めながら、シオドアは遠い国を思っていた。
 いつの間にか寝落ちしていた。だから電話が鳴った時、びっくりして跳ね起きた。その動きでアリアナも目を覚ました。

「こんな時間に誰なの?」

 彼女が不満気に呟いた。シオドアは電話を取った。ケツァル少佐だ。

「オラ!」
ーーブエナス・ノチェス。
「ブエナス・ノチェス、少佐。」

 声が弾んでしまった。アリアナが枕の上から訝しげに見上げた。
 少佐は特に声を弾ませることもなく、いつもの口調で質問してきた。

ーー昨晩聞き忘れましたが、笛はどうなりました?
「俺の部屋に保管している。臭いから紙で包んで引き出しに入れてあるよ。」
ーー一つだけですか?
「スィ。他に同じ型のものが売店に残っていたけど、臭わないんだ。売店の店員に聞いたら、売れたのはその臭い笛1個だけだって。」
ーーそんなに臭いのですか?
「魚が腐ったような臭いだよ。何か麻薬でも土に混ぜているんだろうか?」
ーーそんな臭いがする麻薬など聞いたことがありません。

 ちょっと間を置いてから、彼女が言った。

ーーまさか、吹いたりしていないでしょうね。
「吹かないよ、臭いんだから。」
ーー絶対に吹かないで下さい。

 ジョーンズは笛の音が聞こえると言っていた。彼は吹いてしまったのか。それで呪われた? 
 少佐はもう一度「吹いては駄目」と念を押し、それから彼を安心させることを言った。

ーー誰かをそちらに遣ります。笛を渡して下さい。
「呪いを解いてくれるのか?」
ーー私の専門外です。外国の笛ですから、あっちの国の人に任せます。

 先住民のシャーマンのネットワークみたいなものがあるのだろうか。シオドアがそんなことを考えているうちに、少佐は「おやすみ」と言って電話を切ってしまった。
 シオドアが携帯電話を持ったまま、ぼーっとしていると、アリアナが話しかけてきた。

「さっきの電話は女の人ね。スペイン語で喋っていたけど、セルバ人なの?」

 シオドアは電話を棚に置いた。

「否・・・ジョーンズを正気に返す相談をしたセラピストだ。ジョーンズがマヤの儀式みたいなことをして少年を刺したから、マヤに詳しい人を探していたんだよ。」
「じゃ、メキシコ人なのね?」
「うん。」

 アリアナはそれ以上追求せずに寝返りを打って向こうを向いた。


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第11部  紅い水晶     21

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