2021/06/20

風の刃 3

  午後1時迄2時間の空きがあったので、シオドアは大学に戻らずに街中をぶらぶら散歩した。セルバ流だ。この国には南欧同様シエスタがある。午後1時から午後4時迄が昼休みなのだ。昼休みは官公庁も企業も銀行も閉まってしまうので、慣れない外国人は大変な目に遭うことが屡々だ。シオドアは、ケツァル少佐が北米へ電話をかけて来た時刻がいつも真夜中だったことを思い出した。セルバ人にとって勤務時間は午後8時迄になる。シオドアの研究所がある州との時差を考えれば、午後10時迄仕事をしているのだ。夕食はそれからだ。少佐は、シオドアが寝ている時間を考慮してくれなかったのだろう。
 彼は”曙のピラミッド”の方向へ歩いて行った。昼前で太陽が高い。日差しが強いので、外を歩いているのは遠い北の国から太陽を求めてやって来たヨーロッパ人が多かった。セルバ人は日陰で働いている。
 ピラミッドの壁は黄色い石で組まれていた。強い陽光で金色に光って見える。ピラミッドの周囲は特にフェンスなどなかったが、誰も壁から20メートル以内に入らない、と大学で聞いていた。石畳が途切れ、緑の芝生が壁まで広がっていた。
 シオドアは石畳の端まで歩いて行って立ち止まった。全身の産毛が総立ちした感じがした。まるで電流柵のそばにいる様だ。手を伸ばしてみたが、壁は感じ取れなかった。
 少し離れたところでアメリカ人と思しき観光客が4、5人で見物していた。カメラを構え、交互に撮影したり、携帯で自撮りしたりしてはしゃいでいる。休暇か、良いな、とシオドアは微笑ましく彼等を見た。その直後、一陣の風がザーッと吹いた。1人の女性の頭から麦わら帽子が飛ばされ、ピラミッドの前へ転がった。

「まぁ、どうしよう?」

 女性が困惑した声を出した。彼女の連れ達もその場に立ち尽くしたまま、どうしよう、と言い合っていた。
 取りに行けばいいじゃん、とシオドアは思った。何処にも芝生に立ち入り禁止とは書いていない。だが彼女達は石畳から先へ行こうとしない。
 面倒臭い連中だな、と思いつつ、シオドアは芝生に足を踏み入れた。肌にピリリと刺激を感じたが、それだけだった。彼は麦わら帽子を拾い上げ、観光客のところへ持って行った。有り難う、と笑顔で礼を言われた。

「付近に警察官が見当たらないし、どうしようかと困ってました。」
「警官がいないんだから、取りに行けば良いでしょう。」
「でも、ピラミッドに近づいてはいけないのよ。」

 彼女達は口々に「近づいては駄目」と言ったので、シオドアはびっくりした。観光ガイドにそう書いてあるのだろうか。
 観光客のグループと別れて直ぐに警察官がパトカーでやって来た。エル・ティティ警察署の古いパトカーみたいなものではなく、外国から輸入された最新型モデルの車だ。パトカーが歩いているシオドアの横で停止した。

「セニョール!」

 声をかけられて、シオドアは立ち止まった。

「何か?」
「ピラミッドに近づいた外国人がいると通報があった。貴方のことか?」
「スィ。ご婦人の帽子が風で飛ばされたから、拾っただけだよ。」

 警察官がパトカーから降りて来た。シオドアは周囲を見回した。ボディガードはいない。彼は大学にシオドアがいるものと思って、まだ学舎のロビーで座っている筈だ。もっともここでボディガードに出しゃばられては、話がややこしくなるだろう。

「どんな理由でも、許可なくピラミッドに近づいてはいけない。」
「許可? 帽子を拾うだけで、許可が必要なのか?」
「ピラミッドは特別だ。」
「許可が必要だと書いた看板も何もないじゃないか!」
「そんな物は必要ない!」

 道端で揉めていると、横を通りかかった軍用ジープが急停止した。カーキ色のTシャツに迷彩色のズボンをはいた兵士が降りて来たので、シオドアは面倒なことになったと悔やんだ。近づく兵士のTシャツの胸に緑色の鳥型の徽章が光った。
 警察官が不意に直立不動の姿勢を取ったので、シオドアは驚いた。

 「その人がどうかしたのか?」

 声に聞き覚えがあった。シオドアは歓喜の声を上げた。

「ロホ!」

 ロホ中尉も彼に気が付いた。

「おや、貴方は・・・」

 警察官が不安気に尋ねた。

「中尉のお知り合いでありますか?」
「スィ。上官のご友人だ。」

 ロホ中尉がシオドアに向き直った。

「今度は何に巻き込まれたんです?」

 微かに面白がっている響きが声にあった。シオドアはピラミッドを振り返って説明した。

「観光客の帽子が風で飛ばされたんで、拾ってあげただけなんだが、ピラミッドに近づくには許可が必要だと言われてさ・・・」

 ロホが彼を見て、ピラミッドを見て、また彼を見た。

「ピラミッドに近づいたんですか?」
「スィ。 帽子が壁のそばに落ちたからね。」

 ロホは警察官に言った。

「こちらは外国から来られて間がないのだ。私からよく注意しておくから、今日は見逃してあげてくれないか。」
「貴方がそう仰るのでしたら・・・」

 警察官も無駄な争い事はご免なのだ。中尉に敬礼してパトカーに戻り、直ぐに走り去った。
 シオドアはホッとした。少佐とのデートに遅れずに済む。

「グラシャス、ロホ中尉。助かったよ。ここで君に会えるとは思わなかった。」
「私も貴方がこの国に戻って来られているとは思いませんでした。」

 以前と変わらず優しい口調でこの若い中尉は喋った。

「もう病気は良くなられたのですか?」
「記憶喪失のことかい? ノ、まだ思い出せない。でも一応身元は判明した。」

 シオドアはパスポートを出してロホに見せた。

「テオドール・アルストさん?」
「スィ。テオって呼んでくれて構わない。今、グラダ大学で1年間の客員講師をしているんだ。」
「大学の先生ですか。」

 ロホが素直に尊敬の目で彼を見た。

「うちの部の一番若い少尉が、グラダ大学の通信制で学んでいますよ。」
「アスル?」
「ノ、女性です。」
「さっきは席にいなかった。」
「さっき?」
「文化保護担当部に行って、少佐とランチの約束をしたんだ。礼を言いたくてね。」

 君も一緒にどう? と誘ったが、ロホは首を振った。

「今日は役所に戻って、レポートを作成します。軍隊はシエスタが短いですから、先に仕事をやっつけてしまいたいのです。」
「そうか、それじゃまた今度。」

 ロホがジープに戻りかけて振り返った。

「先刻の様な面倒なことになったら、我々の名前を出していただいて結構です。すぐ釈放されます。」

 どれだけ大統領警護隊の権威があるんだ? シオドアは感心した。走り去るジープを見送ってから、中尉の本名を聞きそびれたことに気が付いた。



1 件のコメント:

Jun Tacci aka ねこまんま さんのコメント...

ロホ君、かっこいいのだよ ♪

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