2021/06/28

アダの森 1

 エル・ティティの町はテオドール・アルストを歓迎してくれた。代書屋が戻って来てくれたのだ。”ミカエル・アンゲルス”が町から出て行って以来口数が減っていたゴンザレス署長が元気を取り戻した。町の若者達が毎晩の様に誘いに来て、シオドアと一緒にバルで飲んだ。女性達が畑で穫れた野菜を持って家に訪ねて来た。巡査達は首都から回って来た行方不明のアメリカ人の手配書を黙って破り捨てた。
 シオドアの頭から方程式も遺伝子解析も組み替えも、全て消え去った。毎朝ゴンザレスと自分の朝食を作り、掃除をして洗濯をして、シエスタの準備をする。ゴンザレスや巡査達とお昼を食べて、軽く昼寝をしてから、会計士事務所へ出勤し、仕事を手伝う。誰かが代書が必要な文書を置いていたら、それをパソコンで清書して印刷しておく。いつの間にかそれは消えていて、代わりに野菜や僅かばかりの現金が置いてある。
 シオドアの居場所がそこにあった。必要とされ、自分も必要としている。誰も命令しない。付き纏わない。

「だが、運転免許証や病院に掛かる時の身分証はいつか作らねばなるまいよ。」

とゴンザレスが心配した。なんとかするよ、とシオドアは言った。大統領警護隊にこれ以上頼る訳に行かないので、本当になんとかしようと考えるのが、日課の一つになった。正式な市民権を取得するには、どうすれば良いのだろう。今のままでは不法滞在になる。
 エル・ティティに戻って37日目。彼は川で洗濯をしていた。ゴンザレスと彼自身の物に加えて独身の巡査の衣服も洗ってやっていた。代書屋に加えて洗濯屋もしようかな、と思った。エル・ティティには以前洗濯屋がいたのだ。歳を取って引退してしまい、後継者がいない。働く時間は十分ある。元洗濯屋の爺さんに道具を借りて商売を始めようか、と思った。

「グラダ・シティとその周辺でCIAが血眼になってアンタを探してるって言うのに、当の本人は川で洗濯かい? いい気なもんだぜ。」

 対岸で男がそう言った。シオドアが顔を上げると、男が1人、AKを抱えて立っていた。迷彩服を着ているが、セルバ共和国政府軍の徽章は何処にもない。大統領警護隊の緑の鳥の徽章もない。
 もしかして、コイツ、やばいヤツじゃないか?
 シオドアは男に言い返した。

「CIA相手に隠れん坊している覚えはないがね。」

 彼は最後の濯ぎを終えたシャツを絞った。洗濯籠に放り込むと、男をもう一度見た。髭面で四角い顔の、よく見るタイプのメスティーソだ。日焼けして、左目の下に横一文字の白い傷痕がある。警察署に手配書が回って来ていた。

「反政府ゲリラの”赤い森”のリーダー、ディエゴ・カンパロだな?」

 フンっとカンパロが笑った。

「署長の家の居候のことはある。手配書を見たんだな。」
「町の至る所にコピーを貼り出してあるさ。何か用か?」

 カンパロはCIAが俺を探していると言った。反政府ゲリラがなんでそんな情報を持っているんだ? コイツらこそアメリカの敵じゃないか。麻薬を売った金で武器を買い、外国人を誘拐しては身代金を要求する。身代金を受け取ったら人質を解放するかと思えば、必ずしもそうではない。3人に1人は殺害されている。逃げようとして、あるいは拘束中に抵抗したり、見張りの機嫌を損なって。
 気がつくと、川のこちら側にもゲリラが居た。シオドアは5丁の銃に囲まれていた。

「アンタを捕まえたら、北の国の政府はいくら払ってくれるかなぁ。」
「無駄だ。特殊部隊を送り込まれて、君達は全滅する。」
「アンタも道連れにされるぜ。」
「どうかな? 一応、俺が生きていることが、彼等にとっては重要なんだよ。面子があるからね。」

 カンパロはシオドアとの言葉のやり取りに早くも飽きた。仲間に合図を送った。

「縛り上げて連れて行け。」

 シオドアは銃を見た。”風の刃”から逃げるより難しそうだ。

「わかった。大人しくついて行く。だけど、署長に手紙を書かせてくれ。CIAに連絡してくれるだろう。」


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