2021/07/01

アダの森 9

  カンパロと手下達は銃を掴んでキャンプの向こう側へ走って行った。焚き火から抜き取った棒を松明代わりにして茂みに入って行く。焚き火のそばに1人だけ残った。ロホの横に立って見張っている。
 ケツァル少佐がシオドアに軍用ナイフをそっと差し出した。シオドアが受け取ると、彼女はスッと立ち上がり、焚き火の近くへ出て行った。見張りは彼女が視野に入っている筈なのに気が付かない。少佐は猫の様に足音を立てずに彼のそばへ近づいた。流石に気配を感じたのだろう、見張りが振り向いた。シオドアは撃ち合いになるかと思った。しかし、見張りは目の前に立っている女性が見えていない様だ。首を傾げ、また仲間が動き回っている森の方を向いた。松明の灯が少しずつ遠ざかって行く。向こうへ行ったぞ、あっちだ、と声を掛け合うのが聞こえた。
 少佐がライフルの負い紐を肩から外し、銃身を握るといきなり見張りの頭部を殴打した。見張りが昏倒した。彼女が振り返ったので、シオドアは茂みから跳び出した。杭に駆け寄り、ロホを縛り付けている縄をナイフで切断した。その間少佐は武器を持ち直し、周囲の警戒を怠らなかった。
 ロホの左肩は汚れた布が巻き付けられているだけで、その布も軍服も血でグッショリ濡れていた。意識がない。だがまだ呼吸はあった。シオドアはリュックを下ろし、ロホを背中に担ごうとした。彼の動きに気づいた少佐が素早く手を貸した。身長があるロホを担ぐのは、やはり身長があるシオドアでも容易なことではない。シオドアは少佐の指示を待たずに森の中へ走った。少佐は彼が森に入ったことを見届けると、リュックを背負い、そばのテントの中を覗いた。予備の武器が置かれていた。その中からロホの銃を迷うことなく取り出すと、残りの銃器にランプの油をかけた。
  夜の森を人間を背負って走るのは非常に困難だった。シオドアが悪戦苦闘しながら駆けていると、すぐにケツァル少佐が追いついた。後方で花火が弾ける様な音が始まった。シオドアが思わず足を止めると、少佐が怒鳴った。

「止まるな!」

 シオドアは再び走り出した。キャンプでの騒ぎを聞きつけてゲリラ達が戻ったのだろう、怒声が聞こえた。闇雲に夜のジャングルに銃弾を撃ち込む馬鹿がいた。射程距離から出たと思われたが、シオドアは生きた心地がしなかった。
 木の枝がぶつかって来た。シオドアは背中のロホを枝から守ってやれる余裕がなかった。せめて大きな枝にぶつけない様に、とひたすらそれだけ念じながら走った。ケツァル少佐が彼の前に出た。ナイフで枝を切り払ってくれたので、少しだけ楽になった。しかしこれは追手に自分達が通った道筋を教えることになる。

「少佐・・・」

 シオドアは喘ぎながらなんとか言葉を声に出した。

「来た道を通れないか?」
「ノ。”入口”から遠すぎます。」

 意味がわからないが、ステファン中尉と落ち合う場所へ行く方角ではないと言うことだ。
 彼等はジャングルの中を歩いているのか走っているのか判別出来ない速度で移動した。シオドアは汗だくだった。しかし汗の臭いより背中のロホの体から漂う血の金気臭い臭いが気になった。野獣がこの臭いを嗅ぎ付けて襲って来るのではないか。それはゲリラとは別の心配だった。
 少し先を走っていた少佐が足を止めた。シオドアに待てと合図を送り、前方を見ていた。数分後に振り返ると、来いと手を振った。
 水辺だった。岩の間を冷たい沢が流れていた。前の日にシオドアがステファン中尉に危うく撃たれそうになった場所からちょっとばかり上流だ。シオドアは岩の上にロホを下ろした。ロホが微かに呻き声を立てた。シオドアが水を飲む間に少佐がスカーフを水で浸してロホの顔を拭いてやった。ロホが目を開いた。何か言いかけたが、少佐は彼の唇を指で軽く抑えた。彼女がリュックを下ろしたので、シオドアは中から医療キットを出した。彼には中身がよく見えなかったが、少佐には昼間同様見えているのだろう。ロホの左肩に巻かれた汚い布を外し、軍服をナイフで切り裂くと、傷口が見えた。胸ではなく腕の付け根だ。もしやカンパロは関節を狙った? シオドアは少佐のスカーフをもう一度水で洗い、ロホの傷口を出来るだけ綺麗に拭いた。その間に、少佐は人間ではない離れ業をやってのけた。医療用の針に糸を通したのだ。

「ロホを抑えて下さい。応急処置を施します。」

 シオドアは咄嗟に目に入った小枝をナイフで切り取り、ロホの顔の前にかざした。

「これを咬め。声を出すなよ。」

 照明なしで外科手術をするなど、前代未聞だ。シオドアは苦痛で全身に力を入れてしまうロホを必死で抱き抑えた。ステファン中尉がいてくれたらもう少し楽なのにと思ったが、いない人間を悔やんでも仕方がない。ロホも必死で耐えていた。刺された時の痛みと針で縫われる痛みと、どちらが苦痛だろうとシオドアは思った。

「終わりました。よく頑張りましたね、アルフォンソ。」

 少佐の一声で、シオドアもロホも力を抜いた。力が抜けるとロホはまたもや気絶してしまった。どうせなら手術前に気絶してくれれば良いものを、とシオドアは内心悔やんだ。また傷口を拭い、包帯を巻いた。少佐が地面に穴を掘って血で汚れた物を埋めた。それから、やっと彼女も手を洗った。
 東のエル・ティティの方角に太陽が上ろうとしていた。


1 件のコメント:

Jun Tacci aka ねこまんま さんのコメント...

この時、シオドアは気が付かなかったが、ロホの傷の出血は停まっていた。
ロホが自力で止めたのだよ。
だから手術の間、ロホの意識があることが重要だった。

第11部  紅い水晶     19

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