2021/07/14

異郷の空 25

  ワイズマン所長が昼食を取るために部屋から出る準備をしていると、室内に人の気配があった。秘書が入って来た筈もなく、彼は片付けていたファイルを閉じてパソコンから視線を上げた。
 執務机の反対側に黒いTシャツに赤いジャンパーを来た若い女性が立っていた。アメリカ先住民だ、とワイズマンはわかった。だが、何処から来た? 何時部屋に入った? 彼は机の裏面に設置されている非常ボタンを押そうと思った。しかし彼の両手はキーボードから離れなかった。彼の目は吸い寄せられた様に彼女の黒い目から離れなかった。
 女性が優しい声音で話しかけてきた。後にワイズマンは彼女のことも彼女が言ったことも何も思い出せなかった。彼はメインコンピューターのデータベースを開き、全てのデータの初期化に着手した。
 メアリー・スー・ダブスンはパウダールームで化粧直しをしていた。ランチを外で取る予定で、その店のギャルソンが彼女のお気に入りの男性だった。基地内の高級フランス料理店だ。彼女の月一の楽しみだった。パウダールームのドアが開閉した。
 鏡に映った彼女の背後に誰かが近づいて来た。大柄な彼女の体に隠れて見えないが、確かに誰かが後ろに歩み寄って来たのだ。後ろに忍び寄るなんて、失礼だわ、と彼女は思い、勢いよく振り返った。黒いTシャツに赤いジャンパーを来た若い先住民の女性が立っていた。ダブスンの頭の奥で警鐘が鳴った。セルバ人に語り継がれている伝説の神様!
 彼女は携帯電話を出そうとしたが、手が動かなかった。目を閉じなければ。焦ったが、相手の目を見てしまった。女性が優しい声音で話しかけて来た。何を言われたのか、彼女は後日何も思い出せなかった。
 超能力者収容フロアへダブスンは向かった。後ろから女性がついてきた。すれ違う人々はフードを目深に被ったその人物が女性だと見当はついたが、誰だか分からなかった。ダブスンはコントロールルームに入った。職員が振り返ると、彼女は彼等に退室を命じた。2人の職員が部屋を出て行くと、フードの女性が彼等に言った。

「お昼ご飯を食べて来なさい。」

 職員達は振り返らずにエレベーターに乗って去った。
 ダブスンはコントロールパネルを操作し、収容されている全ての捕虜の部屋の解錠を行った。そしてお気に入りのギャルソンがいるお店に急いで出かけた。
 収容されている人々は10名ほどだった。彼等が逃げるか逃げないかは、彼等の自由だ。その時は収容者達に昼食が提供されていた。ステファン大尉もハンバーガーとチョコレートクッキーとプラムジェリー、コーヒーの食事を与えられた。しかし運動をしていないので食欲が湧かなかった。職員は食事のトレイをテーブルに置くと部屋から出て行き、当然ながら施錠した。ステファンは溜め息をついた。食べなければ、またあの小太りの男が来て文句を言うのだろうか。彼はハンバーガーを両手で押さえてからかぶりついた。味は悪くなかったが、2分の1まで食べて満腹になった。彼が皿にハンバーガーを戻した時、ドアの鍵がカチリと言った。振り返ると、誰もおらず、見張りは少し離れた通路の椅子に座って携帯の画面を眺めていた。気のせいか、と思った時、通路の向こうの角を曲がって赤いジャンパー姿の人物が近づいて来た。その顔を見て、彼は思わず微笑んでしまった。それなら、さっきの音は空耳ではない。彼はドアを引いてみた。ドアが開いた。彼は見張りに声を掛けた。

「おい、鍵が開いているぞ。」

 見張りがはじかれた様に立ち上がった。あってはならないミスだ。彼は囚人に言った。

「退がっていろ。施錠する。」

 その彼の首を後ろから赤いジャンパーの人物が殴りつけた。見張りは昏倒した。
 ステファン大尉が部屋から出ると、彼の上官が彼の足を見て眉を顰めた。

「裸足ですか?」
「スリッパしかもらえなかったのです。」

 ケツァル少佐は気絶している兵士を見た。ステファン大尉は素早く兵士の服を奪い、足から靴を脱がして、自分の足を入れた。多少窮屈だが動けるので暫しの我慢だ。彼の作業中に少佐は彼が閉じ込められていた部屋に入り、ハンバーガーを掴んだ。大口を開けて彼に断りもなく食べてしまった。大尉は勿論承知していた。能力を最大限に使う時の"ヴェルデ・シエロ”はエネルギーの消費量が物凄いのだ。彼自身まだ本調子ではない。体力を変身と脇腹の傷の治癒に使ってしまったのだから。プラムジェリーも食べてしまうと、彼女は部屋から出てきた。彼にクッキーを差し出した。食べろと言う無言の命令だ。口の中の水分を奪われるのが嫌だったが、ステファンはクッキーを口に詰め込んだ。コーヒーは無視して部屋に常時備えられている水で2人は水分補給した。その間10分と掛からなかった。
 少佐は彼について来いと合図して足早に歩き始めた。走ったりはしない。足元は軍靴なのだが足音も全く立てない。ステファンも多少サイズの小さな軍靴で彼女の後ろを追いかけた。途中で他の収容室の前をいくつか通った。解錠されたことに気づかない男性や、既に廊下に出て途方に暮れている女性、エレベーターを目指して走って行く男性等行動は様々だった。2人のセルバ人は彼等の存在を無視して歩き続けた。研究所が捕まえていた超能力者達に彼等の姿は見えなかった。ステファンは今まで自分の姿を他人に見られない”幻視”を使ったことがなかった。だから最初に警備兵と出会った時、一瞬身構えた。素手で戦うつもりだった。しかし少佐が振り返って”心話”で命じた。消えなさい、と。彼は咄嗟に念じた。消えろ、と。彼自身の体には何の変化もなかったので、彼は失敗したと思った。しかし警備兵が腰を抜かした。

「人が消えた!」

 警備兵が銃を構えて屁っ放り腰で近づいて来たので、ステファンは通り道を空けてやった。彼の目の前を警備兵は通り過ぎて行った。少佐が”心話”で言った。簡単でしょう、と。2人は地上階に出た。彼女が部下を案内したのは、ワイズマン所長の部屋だった。ワイズマンはまだメインコンピューターのコマンドに取り組んでいた。少佐はステファンに”心話”で命じた。

ーー見張っていなさい。この男の作業を妨害しようとする者は容赦なく叩きのめしなさい。

 ステファン大尉は命令を承った。
 ケツァル少佐はシオドア・ハーストを迎えに再び地階へ降りて行った。





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第11部  紅い水晶     21

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