2021/07/17

聖夜 2

  ミゲール大使の私邸でシオドア達は夕食をご馳走になった。たった1時間前にハンバーガーを食べたばかりだったが、随分昔のことの様に思えた。料理は急ごしらえだとコックが言い訳したが、焼いたチキンに玉ねぎやポテトやトマトやトウモロコシなどの焼いたり蒸したりした野菜を添えた単純な物がとても美味しかった。シオドアはこの単純な料理に、エル・ティティの生活を思い出し、懐かしく感じた。セルバの庶民の食事だ。大使にはそれなりの魚をメインにした食事が用意されていたので、コックはそれを分けて女性2人に出した。アリアナは何から何まで初体験で混乱していた。食欲がなさそうに見えたが、斜め向かいに座った少佐が辛いソースを彼女の為にマイルドな物に取り替えてあげてとコックに頼んでくれたので、魚のフライを口に入れた。そして口に合った様で、それから黙って食べ始めた。
 シオドアは斜め向かいのステファン大尉が少佐とチキンの攻防戦を繰り広げるのを見て、笑ってしまった。大尉は肉を最初に食べ易い大きさに切り分けておく習慣があるらしく、少佐がそれを横から掠め取って行くのだ。大尉は苦情を言わない代わりに、彼女が盗る瞬間を見つけると、彼女の手をピシャリと叩いた。上官に対する振る舞いとは思えない。少佐の行為も上官が部下にするものと思えなかったが。
 アリアナがシオドアに囁いた。

「仲が良いのね。」
「うん・・・まるで姉弟みたいだ。」

 いきなりケツァル少佐が咳き込んだ。彼女はナプキンで口元を抑え、失礼、と席を立った。コックが彼女を厨房へ案内した。シオドアはステファン大尉がちょっと気遣う目で彼女の背を見送るのに気がついた。大きな超能力を使った後で疲れている少佐を心配しているのだ。

「それで?」

とミゲール大使が不意に言葉を発した。英語だ。

「ドクトルとドクトラはこれからどうされますか?」

 シオドアは現実に引き戻された。彼はナイフとフォークを皿に置いて、大使に向き直った。

「私、シオドア・ハーストは、セルバ共和国に亡命を申請します。お願いします。」

 もう心は決まっていた。祖国に何も心残りはない。血縁者も友人もいない。仕事に未練もない。財産もない。失うものは何もなかった。
 彼はアリアナを振り返った。彼女は巻き込まれたのだ。セルバへ行っても言葉がわからない。友人もいない。エル・ティティの様な田舎の暮らしに我慢出来るだろうか。

「君は好きな道を選べば良いよ、アリアナ。」

とシオドアは努めて優しく言った。

「元は俺の好奇心から始まった騒動だ。俺は研究所を荒らすつもりはなかった。だが友人を助けるのに必要だった。君はたまたま巻き込まれただけだ。今戻って、俺に無理矢理強要されて逃亡を手伝わされたと言えば良い。」

 アリアナが「馬鹿を言わないで」と反論したので、彼はびっくりした。彼女は言った。

「私は、少佐からパスポートを用意してと言われた時に、心を決めたの。私もセルバに行くわ。スペイン語を覚える。フランス語ができるから、スペイン語だって覚えられるわ。」

 大使が微笑した。

「では、明日の朝、本国に連絡を入れます。我が国が周辺国から難民を受け入れた歴史はありますが、アメリカから亡命者を迎えるのは、恐らく初めてです。しかし、政府が拒む理由はないと思います。あなた方は、我が国の国民を救ってくれましたから。」

 ステファン大尉がシオドアとアリアナに向かって軽く頭を下げた。

「お2人のご協力と犠牲に深く感謝いたします。」

 英語で丁寧に言われて、アリアナが赤面した。シオドアは気が付かないふりをした。彼女はきっとステファンに恋をしているのだ、と推測していた。庭先で拾った黒い猫の抱き心地を忘れられないのだ。しかし男の方は恩を感じていても、彼女に気持ちがある訳ではない。ステファンの心は間違いなく彼の上官にある。シオドアは確信した。
 ケツァル少佐がデザートの大きなチョコレートプディングの皿を持って戻って来た。大使が呆れたと言いたげな顔をした。

「シータ、セルバ美人になるつもりかい?」

 ちょっと昔のメソアメリカでは、女性は太っている方が美人と見做された。女性が太る程彼女の配偶者たる男が裕福である証拠だったのだ。しかし最近は欧米と同じように若い女性はスリムでモデルみたいな体型を維持したがる。

「今夜の彼女は必要なんですよ。」

とステファン大尉が静かに上官を援護した。チキンを掠め取る彼女の手を叩いたくせに、甘い物は見逃してやるのだ。彼は食べないから。
 少佐はテーブルの真ん中にプディングの皿を置いた。そしてアリアナを見て微笑んだ。

「必要でしょ?」
「スィ。」

とアリアナがスペイン語で応えて、また赤くなった。


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