2021/07/24

博物館  9

  次の日の朝、シオドアとアリアナは通常通り大学へ出勤した。アリアナにバイトの話をしなかったのは、まだ具体的に博物館で何をするか決めていなかったからだ。だから、国立民族博物館に用事があるので帰りが遅くなる可能性があるとだけ伝えておいた。彼女が大統領警護隊文化保護担当部と関係があるのかと尋ねたので、肯定はしておいた。

「多分、ミイラのDNA鑑定が必要になると思うんだ。」

と言うと、彼女はそれ以上突っ込まなかった。
 大学の研究室に入ったシオドアは午後の授業の準備に没頭した。シエスタの時間を長く取りたかったので、早く準備を終わらせる必要があった。
 アリアナは医学部の研究室が少し暇になったので、先週末にマハルダ・デネロス少尉から頼まれた英語で書いた論文の校正した原稿を届けに出かけた。監視役の運転手を電話で呼ぶと、彼は大学の近くにいて、すぐ来てくれた。メスティーソの若い男性でエウセビーオ・シャベスと言う名前だ。内務省の職員かと思ったが、陸軍の軍曹だと言った。だから大学の側にある陸軍士官学校で送迎の時刻まで待機しているのだと説明した。大統領警護隊の隊員も陸軍士官学校からスカウトされるので、アリアナはなんとなく親しみを感じてしまった。シオドアから監視役とは個人的に親しくなるなと言われていた。彼等の任務の障害になるから、と言う理由だ。シャベスは普通の”ヴェルデ・ティエラ”のメスティーソで、大統領警護隊とはお近づきになれても友達になりたくない様子だった。彼の同級生で警護隊にスカウトされた人がいないのも理由の一つであるかも知れなかった。

「ドクトル・アルストから夜の迎えは暫く必要ないと言われましたが、”ロス・パハロス・ヴェルデス”と何かなさっているのでしょうか?」
「知らないわ。博物館で何か仕事を依頼されたみたいだけど。」
「博物館? セルバ国立民族博物館ですか? それともグラダ・シティ近代科学博物館?」
「ミイラがいる所よ。」

 アリアナの答えに、彼は「ああ」と呟き、それ以上は訊いて来なかった。
 文化・教育省の入り口で、いつもの愛想のない女性軍曹にI D確認をしてもらい、入館パスをもらってアリアナは4階へ上がった。階段からフロアに入って、しまった!と後悔した。デネロスの都合を先に確認するべきだった。これ迄彼女が大統領警護隊文化保護担当部を訪問した時、必ずと言って良いほどマハルダ・デネロス少尉は在席だった。しかし、この日彼女は不在で、文化保護担当部の場所にいたのはカルロ・ステファン大尉一人だけだった。ケツァル少佐もロホもアスルもいなかった。ステファンは火が点いていないタバコを咥えて、面白くなさそうな顔でパソコン作業をしていた。服装はカーキ色のTシャツとジーンズだ。パンツが迷彩服の時はいつでも遺跡へ出動出来る体勢で、ジーンズの時は一日中事務仕事の日、と以前デネロスが教えてくれていた。ステファンは本日留守番の当番なのだ。
 彼しかいないのだと分かったので、アリアナは出直そうと思った。しかし、他の部署の職員に気づかれてしまった。誰かが声を上げた。

「ステファン大尉、お客さんですよ!」

 すっかり顔を覚えられてしまった。ステファン大尉が顔を上げてこちらを見たので、仕方なく彼女はデネロスの論文が入った封筒を掲げて、訪問の目的を告げようとした。封筒を誰かに預けて帰るつもりだったが、ステファン大尉が手を振って、入って来いと合図をした。アリアナはカウンターの内側へ入った。文化保護担当部の区画へ行くと、大尉が視線をキーボードに戻して言った。

「デネロスは10分か20分程で戻って来ます。」

 封筒を預かってやろうと言わない。彼女がデネロスを待つものと決め込んでいる。しかしこれはセルバ流だ。1時間や2時間市民を待たせることをセルバ共和国のお役人はなんとも思わないのだ。アリアナは仕方なくデネロスの椅子に座った。気まずい沈黙が訪れた。何か彼と話をしたいが話題が思いつかない。仕事の邪魔をしたくない。だが黙っていると息が詰まる。彼女は大尉をそっと見た。先週末、彼はまたゲバラ髭になっていたが、この朝はまた髭がない。タバコを咥えた少年の様に見える。彼女は思い切って話しかけてみた。

「髭を剃ったのは任務で必要だからかしら?」
「なんです?」

 よく聞こえなかったのか、ステファンが顔を上げた。アリアナはちょっと緊張しながら繰り返した。

「貴方が髭を剃ったのは、仕事で剃る必要があったからですか?」

 多分スペイン語の文法を間違えずに言えた筈だ。ステファンが顎を手で擦った。彼女の為に英語で語ってくれた。

「ああ・・・これは・・・夕べ、下士官達とポーカーをして負けたからです。」
「?」
「金のやり取りがあると軍律違反になるので、勝ったヤツの言いなりになるんです。昨夜は負けたら剃刀を一回ずつ髭に当てることになっていました。」
「負けた人、全員?」
「スィ。しかし、中途半端で終わるとみっともない顔になるので、最後は全員で剃りましたがね。」

 アリアナは思わず笑ってしまった。そこへマハルダ・デネロスが戻って来た。アリアナが笑っている理由をすぐ悟った。

「髭がない大尉って、可愛いでしょ?」

と彼女も笑いながら話しかけてきた。

「この顔で遺跡荒らしを追いかけても、怖がる人はいませんよ。男の人って馬鹿でしょ?」

 ステファン大尉はムッとして、エステベス大佐の札が下がったドアを指差した。

「ドクトラに論文の指導をしていただくのだろう? 時間を無駄にするな。」

 デネロスは舌をペロッと出して、部屋の準備をする為に大佐の部屋へ向かった。その隙にステファン大尉がアリアナに声をかけた。

「金曜日の夜は酔った勢いで失礼なことをしてしまい、申し訳ありませんでした。」

 アリアナは彼の逞しい腕に抱き抱えられたことを思い出した。胸がドキドキした。

「気にしないで・・・私も酔っていたから・・・」
「つい妹と戯れている様な気分になって・・・怖がらせてしまって、済みませんでした。」

 私に対する彼の認識は女ではなく妹のレベルなのか、とアリアナは思った。胸の動悸が鎮まり、赤面せずに済んだ様だ。なんとか誤魔化す為に言った。

「少佐も妹に見えた? 彼女と私の間に強引に座ったけど?」

 大尉が赤面した。

「どうか忘れて下さい。少佐が手を上げなかったのが奇跡なんです。」
「誰が手を上げるって?」

 ケツァル少佐の声がして、ステファン大尉が固まった。いつの間にか少佐がカウンターの内側にいた。

「素面の私が酔っ払いを殴るとでも?」

アリアナは素直に笑えた。


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