2021/07/12

異郷の空 21

  カルロ・ステファンは誰かに名前を呼ばれた様な気がした。まだ目蓋が重たかったが、彼は目を開いた。眩しかったが、天井と大きな照明器具が見えた。直ぐそばで男の声が聞こえた。

「目を開けたぞ!」
「馬鹿な、麻酔は効いている筈だ。」

 彼は起きあがろうとした。両手が引っ張られ、動けなかった。一瞬腹が立った。バキッと金属が折れる音がして両手が自由になった。男達が騒いだ。

「目を覚ました。」
「危険だ。退避しろ!」

 足音。ステファンは上体を起こした。白衣姿の男が2人、ガラス扉の向こうへ駆け出して行くのが見えた。扉が閉じられると同時に戸口の上で赤色灯が点滅を始め、アラームが鳴り出した。訳がわからないまま、彼は両腕に刺さっていた点滴の針を引き抜いた。頭部にも胸部にも足首にも端子が装着されていたが、それも一気にむしり取った。
 室内を見回すと、心電図や脳波計のモニターが目に入った。ガラス張りの狭い部屋だ。病院の様だが、何かおかしい。腰に薄いブランケットが掛けられていた。めくると、申し訳程度に下着だけ履かされていた。ベッドから降りると脚に力が入らず、転倒しかけた。ベッドの縁を掴んでなんとか体を支えたが、腕の力も頼りなかった。点滴の薬のせいだ、と彼は思った。脳の奥で声が聞こえていたが、言葉を聞き取れない。
 ガラス壁の向こうに兵士が駆けつけた。ヘルメットを被り、自動小銃をこちらへ向けて待機の姿勢で上官を待つ彼等は全員サングラスをかけていた。
 ステファンは無駄な戦いをしない主義だ。そんなものは少年時代の喧嘩で十分やってしまったし、セルバ共和国陸軍でみっちり教育された。もし今の状況が本当に絶望的なものであれば最後の意地で暴れたかも知れない。しかし彼の脳の奥でブンブン唸っている蜜蜂の羽音に似たものは、彼に理解出来ないまでも希望を与え続けていた。

 ママコナが俺に語りかけている・・・

 ガラス戸が開いて、ぽっちゃり顔の男が入って来た。男は用心深くゆっくりと近づいて来て、ベッドの縁を掴んで体を支えている彼のそばに立った。それから身を屈めて、彼と同じ目の高さで話しかけて来た。初めて見る顔だったが、声は聞き覚えがあった。アリアナ・オズボーンの家で捕まった時に、袋越しに耳にした声だ。

「君に痛い思いをさせたくないんだ。大人しくベッドに戻ってくれないか。今は君の健康状態を調べているだけだ。僕は君の友達のシオドア・ハーストの弟のエルネスト・ゲイルだ。」

 ステファンが点滴の針に視線を向けると、エルネストがちょっと笑って見せた。

「ああ、あれは痛いよなぁ。栄養剤だけど、君が目を覚ましたから、もう必要ないな。後でちゃんと食事を出す。だから心電図と脳波を測らせてくれないか。」

 彼はベッドの柵に掛けられた手錠を見た。捕虜の手首に掛けられていた方の輪っかは左右ともに砕かれていた。ピンポイントで確実に念力を使って標的を破壊している。凄い、本当にこいつは凄い。
 ステファンの頭の中の声が途絶えた。一瞬希望も途絶えた気分に陥ったステファンは思わず呟いた。

「ママコナ?」

 それをエルネストは聞き間違えた。彼が「ママ」と呼んだと誤解したのだ。こいつはやっぱりまだ幼いんだ。故郷に帰りたがっている。
 咄嗟に彼はセルバ人を引き寄せ、抱き締めてやった。この暴挙にステファンはパニックに陥った。心電図計や脳波計が火花を噴いた。ガラス壁の向こうの兵士達がいろめきたった。

「馬鹿野郎、エルネスト! 何をやってんだ?!」

 シオドア・ハーストの怒鳴り声が響いた。エルネストは頭の中が真っ白になった状態でガラス部屋の戸口を見た。ステファンも彼に抱き抱えられたままそっちを見た。シオドア・ハーストが立っていた。顔はやや青褪めていたが、目は怒りで燃えていた。シオドアの後ろにワイズマン所長がこれも強張った表情で立っていた。
 シオドアがヒッコリー大佐に向けて腕を伸ばし、抑えて、と合図を送った。そしてワイズマンを振り返った。

「部屋の中に入ります。」

 ワイズマンが頷いて許可を与えた。 シオドアが静かに部屋に足を踏み入れた。友人と言えどセルバ人は今興奮状態にいる。刺激するのは危険だった。

「彼から離れろ、エルネスト。君が彼を脅かしたんだ。」

 まだ頭が空白になったままのエルネストがその言葉を理解する前に、ステファンが彼を押しのけて立ち上がった。まだ足元がおぼつかないが、床に尻餅を付いたエルネストを見下ろす目に威圧感があった。だからシオドアは忠告した。

「君もエルネストを怖がらせないでくれ。目を逸らせてくれ。」

 武器となる目を塞がせるな、と暗に注意を与えた。ステファンは彼を見て、それからベッドの縁にドサリと腰を下ろした。その隙にエルネストが半分腰を抜かした状態で部屋の外へ逃げて行った。シオドアはステファンの隣に座った。室内を見ると計器類から煙が出ていた。点滴の針から薬剤がポトリと落ちた。神経の興奮を抑える鎮静剤だ。この薬は”ヴェルデ・シエロ”には効力がないのか。それとも”ヴェルデ・シエロ”はすぐに抵抗力をつけてしまうのか。

「気分はどう?」

 外の人間に余計な詮索をされないよう、英語で話しかけた。ステファンも英語で答えた。

「最低です。」

 シオドアは彼の脇腹の傷を見た。

「傷はまだ痛むかい?」
「こっちは大丈夫です。そろそろ痒くなって来ました。」

 彼はステファンの肩を軽く叩いた。そして立ち上がるとワイズマンに声を掛けた。

「室内の計器類は使い物になりません。部屋を掃除して機械を入れ替えるか、新しい部屋へ移してやって下さい。新しい部屋は出来れば3方は壁にして欲しい。プライバシーを守られないと、被験者が落ち着けない。それから、服を着せてやって下さい。普通に人並みに扱っていれば、彼も暴れたりしません。」

 そしてステファンを見て、「だろう?」と念を押した。ステファンも同意した。 ワイズマンも異論がなかった。

「新しい部屋を用意する。ただし、用意が出来るまでは見張りを残す。」

 彼は情けをかけてやることにした。

「移動まで一緒にいてやれ。ここで生活する心得でも教えてやることだ。出来るだろう? 君が記憶喪失になる前にやっていた仕事だ。」

 彼は立ち上がったエルネストを睨みつけ、ついて来いと合図して立ち去った。エルネストはガラス部屋を振り返った。シオドアを睨みつけたが、怒りと言うより嫉妬の炎をその視線に感じて、シオドアはびっくりした。
 部屋の外のヒッコリー大佐の特殊部隊は2人の見張りを残して引き上げた。
 シオドアはスペイン語でステファンに話しかけた。

「エルネストが君をどう扱うのか心配になって、ワイズマンに掛け合ったんだ。昔やっていた仕事内容を思い出してね・・・捕まえた超能力者の世話を指示していたのは俺なんだ。だから、素人のエルネストなんかに君を任せたら君も研究所も危険な状態になると訴えたら、中に入れてもらえた。」
「来ていただいて感謝しています。」

とステファンが元気のない声で言った。

「実際、私はもう少しでさっきの男の首を折るところでした。」
「何があったんだ?」
「わかりません。」

 彼は肩をすくめた。

「いきなり抱きついて来たんです。衆人環視の中で襲われるなんて思っても見ませんでした。」
「君を襲った訳じゃないだろうけど・・・」

 シオドアも肩をすくめた。

「俺も時々あいつが理解出来ないから。 兎に角、あいつ、エルネスト・ゲイルとダブスンって言う中年女性の博士には用心しろよ。ダブスンは時々オルガ・グランデへ研究サンプルを採取しに行っていたから、神様の扱いを現地の人間から聞かされている節がある。目を塞がれたら、君が困るだろう?」
「忠告有り難うございます。」
「俺はエルネストが持っている君のデータを消さなきゃならない。連中に寝返ったふりをするから、我慢していてくれ。」

 そしてシオドアは、ケツァル少佐から教わった”ヴェルデ・シエロ”の言葉で囁いた。

「彼女がここに来ている。」

 ステファンの目が希望で明るく輝いた。


1 件のコメント:

Jun Tacci aka ねこまんま さんのコメント...

カルロ・ステファンは気の放出が大き過ぎて人間を含む生物に警戒されるのだが、ある種の人々は彼に魅了されるようだ。
エルネストはアリアナとは別の意味で彼に執着してしまう。

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