2021/07/10

異郷の空 15

  アリアナ・オズボーンはカルロ・ステファンの逞しい筋肉質の体を優しく何度も撫でていた。彼はウォッカマティーニ1杯で酔ってしまった。逃亡と変身と負傷で消耗した体力が戻っていなかった。だから彼女にされるがままになって、彼女が求めるままに体を動かした。アリアナは今まで味わったことがない快楽を体験した。シオドアも研究所の他の若い科学者達も助手達も、こんなに素晴らしい体を持っていない。この猫を手放したくない。
 だがカルロ・ステファンの方は違った。命の恩人の要求に応えただけだった。上官の、と言うより士官学校時代の上級生の命令に従う感じで「仕事をした」。終わると全身が溶けてしまう様な疲労感が残っただけだった。もうすぐ上官が迎えに来てくれると言うのに、眠たくて仕方がない。彼はシーツに顔を押し付けて目を閉じた。
 アリアナがベッドから出た。彼女ももうすぐシオドアがケツァル少佐を連れて戻って来ることを忘れていなかった。素早く服を身につけた。

「お水を持って来るわ。貴方も服を着て。」

 彼女が寝室から出ると、彼は仕方なく体を起こしてベッドから降りた。ズボンを履いた時、キッチンの方で物音がした。彼女は水を汲みに行ったのだから当然かと思ったが、彼の本能が警戒せよと言った。素足のまま、彼はドアに近づき、耳を澄ました。音は聞こえない。彼女が水を汲む音も冷蔵庫を開け閉めする気配もない。感じるのは複数の人間の張り詰めた緊張感だ。

 敵が家の中に入ってきている

 武器はない。ナイフもアサルトライフルも拳銃も何もない。変身も出来ない。今は指先さえ変化させる体力が残っていない。寝室の窓を見た。外にも人間の気配があった。
 彼はシャツを着た。捕まるとしても、みっともない姿で捕虜になるのは嫌だと思った。それにアリアナ・オズボーンがどうなったのか気になった。命の恩人だ。そして大事な友人テオドール・アルストの”妹”だ。
 靴がないので素足のまま、ドアを開き、廊下に出た。真っ暗だった。アリアナが照明を消した筈がない。シオドアが帰って来るのだから。キッチンとリビングの方へ歩き出すと、前方に人影が現れた。奇妙な頭部だったので、一瞬ギョッとしたが、赤外線スコープ付きのヘルメットを被っているのだとわかった。銃をこちらへ向けている。左右に1人ずつ。撃つなら撃て。彼はゆっくりと進んだ。暗闇は”ヴェルデ・シエロ”にとって色彩がないだけで普通に見える世界だ。キッチンの方でアリアナの匂いがした。血の匂いはしないから、彼女は抑えられているだけだ。彼が進むと、赤外線スコープの連中が後退りした。
 小さな家だ。すぐにリビングに到達した。部屋に入った途端に照明が点いた。強烈なライトを顔に浴びせられ、ステファンは手で顔を覆った。

「美術品窃盗犯の”コンドル”だな?」

と男の声がした。男はライトの横に立っているので顔が見えなかった。相手の目を見ることが出来ない。胴に銃口が押し当てられた。彼は仕方なく両手を挙げた。まだライトを顔に当てられたままなので目を前へ向けられなかった。ヘルメットを脱ぐ男達がチラリと見えた。
 警察ではない? 彼は軍人だ。外国の軍隊の制服の知識は持っていた。アリアナ・オズボーンの家の中にいるのはアメリカの陸軍だ。
 キッチンでアリアナのヒステリックな声が聞こえてきた。

「私の家の中で何をしているのよ! 彼は友達よ! 銃を向けないで!」

 するとステファンが知らない別の男の声が言った。

「君にセルバ人の友人がいたなんて、初めて知ったよ、アリアナ。今夜はテオが泊まる筈じゃなかったかい?」

 その男はライトの横の男にも声をかけた。

「そのセルバ人の頭に袋を被せなさい、ヒッコリー大佐。目を使わせちゃ駄目だ。ダブスンがそう言ってる。」

 ステファン大尉はアリアナとその若い男が言い合いを始めたのをぼんやり聞いていた。兵士が彼の腕を掴み、背中で緊縛した。そして若い男の希望通りに黒い不織布製の袋を頭部にすっぽりと被せられた。これじゃゲリラの誘拐と同じじゃないか、と彼は思った。急に恐怖が襲ってきた。2度と生きて故郷に帰れない。彼は心の中で叫んだ。

 ケツァル少佐、早く来てください!

 彼の腕を掴んでいた兵士が後ろに吹っ飛んだ。ライトの電球が破裂し、他の兵士達が手に電気の様な衝撃を感じて危うく手にしていた銃を落としそうになった。エルネスト・ゲイルは全身が痺れる様な感覚を覚え、ライトの破片を浴びて呆然としている制服姿のヒッコリー大佐を見た。

「何が起こったんだ?」

 大佐が呟いた。アリアナが床に膝を突いたステファン大尉に駆け寄った。

「大丈夫?」

 咄嗟に彼女は彼の名前を偽った。

「しっかりして、コンドル。」

 ステファン大尉は袋の中で微かに頷いた。エルネストが彼女の肩を抱いて引き起こした。そして大佐を振り返った。

「見たでしょ? 今のがこいつの力ですよ。凄い、本物だ!」

 ヒッコリー大佐は服に飛び散ったガラス片を手袋で払い落とした。兵士達は距離を空けてステファンを取り巻いている。少しでも変わったことをしたら撃ち殺しかねない雰囲気だ。 エルネストはアリアナを振り返った。

「こいつを説得しろ。大人しく従えば、傷つけたりしないと言うんだ。研究に協力すれば窃盗の罪は見逃してやると言え。」

 アリアナは彼を睨みつけ、それから再びステファンの横に膝を突いた。恐る恐る彼の背中に手をかけると、彼は微かに緊張したが、何も起こらなかった。彼女はそっと囁いた。

「貴方の遺伝子を調べさせて。痛い思いは決してさせないわ。だから、彼等に逆らわないで。わかるでしょう? 今の貴方に戦うのは無理よ。」

 彼女は彼が抵抗しないことを示す目的で彼を抱き締め、それからエルネストに頷いて見せた。
 ヒッコリー大佐がセルバ人を家の外に連れ出すと、エルネスト・ゲイルはアリアナにもついて来いと言った。

「テオが戻るのを待つわ。」

と彼女が逆らうと、彼は彼女の体を見ながらニヤニヤ笑った。

「だけど、サンプルは新鮮なうちに採取しておかないとね。」
「どう言う意味?」
「人前で僕に言わせる気かい? さっきまで彼と寝室にいたんだろ?」

 アリアナは耳まで真っ赤になった。それでも行かないと頑張った。それなら、とエルネストが彼なりに譲歩した。

「自分でサンプルを採取して明日の朝一番に持って来いよ。そうすれば彼に恥ずかしい思いをさせずに済むぜ。」

 彼は彼女を家に残し、外に出た。窓を黒く塗ったバンがエンジンをかけたまま待っていた。彼は中央の席に乗った。後部席を見ると、2人の兵士に挟まれて座ったセルバ人がぐったりしているのが見えた。ただし、袋を被せられているので顔は見えない。

「そいつ、どうしたんだ?」
「具合が悪そうです。」
「観察していろ。折角生け捕ったのに死なれては困る。」

 前に向き直った彼は呟いた。

「アリアナのヤツ、かなり弄んだ様だな。」

 研究所はすぐそこだった。


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