2021/08/13

星の鯨  6

  トゥパル・スワレの体に宿るニシト・メナクが悲鳴を上げた。シオドアは急に呼吸が楽になって、その場に膝を突いた。肺が空気を求め、彼は激しく咳き込んだ。ケツァル少佐が彼の体に腕をかけ、背中を優しく摩った。
 男の悲鳴が続いていた。シオドアが顔を上げて見ると、地面に倒れた男の上に大きな黒いジャガーがのしかかっていた。男は両腕を顔の前にかざし、噛まれまいと必死で抵抗していたのだ。シオドアは怒鳴った。

「殺すな、カルロ! そんなヤツの血で君の牙を汚すな!」

 ジャガーが逞しい前脚を持ち上げた。ケツァル少佐が叫んだ。

「止めい!」

 ジャガーの動きが止まった。男はまだ腕で顔を覆っていた。腕は傷だらけで血が流れ出ていた。その腕が少しでも動くと、ジャガーが威嚇の声を発した。

「退がれ、エル・ジャガー・ネグロ。」

 穏やかな男性の声が聞こえた。シオドアと少佐は声がした方向へ振り向いた。そして暗がりの中から湧いて出た5人の白い貫頭衣の人物を見た。彼等は全員奇妙な文様が入った人面の仮面を被っていた。長老会の人々だ、とシオドアは思った。
 別の声が同じことを繰り返したが、それは女性の声だった。

「退がりなさい、エル・ジャガー・ネグロ。」

 黒いジャガーは唸り声を出した。その「抗議」を理解したのか、先刻の女性が応えた。

「怒りは理解します。しかし、裁きは我々で行います。」

 ジャガーが男の体から下りた。まだ唸り声は続いていた。相手に、少しでも動くと爪を立てるぞと威嚇しているのだ。
 シオドアはケツァル少佐に手を貸して立ち上がった。彼等はニシト・メナク=トゥパル・スワレが地面に蹲り両手で頭を抱えているのを見下ろした。
 シオドアは新たに現れた人々に声を掛けた。

「あなた方は長老会の人々だとお見受けします。ここで起きたことを、何処からご存知ですか? 今来られた様に見えましたが・・・」

 3人目が答えた。

「暗がりの神殿にいると、ここでの会話が全て聞き取れるのだ。何処から聞いていたかだと? フン、黒猫が湖に入ったあたりからだ。」

 その喋り方に聞き覚えがあったので、シオドアはドキッとした。貴方は、と言いかけると、ケツァル少佐が脇腹を肘で突いた。仮面を被った長老に個人名を呼んではいけないのだ。
 4人目が説明した。

「アルファット・マレンカが白人の女を連れてピラミッドの太陽神殿へ戻って来た。彼の通報を受け、すぐに動ける者だけで彼の記憶を辿って太陽神殿から空間を抜けて暗がりの神殿に来たのだ。暗がりの神殿は禁忌の場所で長い間誰も立ち入らなかったので、仕組みもよくわかっていない。だが奥の壁の前に立つと、ここでのお前達の会話が全て聞こえた。」
「え? そんな仕組みがあったんですか?!」

 シオドアが単純に驚くと、少佐が小声で囁いた。

「私達が向こうにいた時、こちら側には誰もいなかったでしょ!」
「あっ、そうか・・・」
「恐らく、ここでの音声を壁の向こうで巫女や神官が聞いて、神託を行っていたのです。」

 4人目はシオドア達の口出しに気を悪くした様子もなく続けた。

「”入り口”も奥の壁にあった。襞の様な”入り口”だったので、マレンカの小倅も気付かなかった様だが。」

 最初の長老が後を継いだ。

「我々もここは初めてだ。ここへ来て初めて知ったことばかりでな・・・」

 彼は仮面越しに湖や天井を眺めた。

「恐らく、生きている者が知ってはいけない場所なのだろう。」

 彼には誰か懐かしい人が見えたのだろうか。
 すると5人目が初めて声を出した。

「急がせて申し訳ないが、この”ヴェルデ・ティエラ”は早く手当てしてやらなければ死んでしまうぞ。」

 彼は倒れていたシャベス軍曹を診ていたのだ。

「頭の中の出血を止めておいた。後は医者に任せるしかない。”ティエラ”は自分で治せないからな。」

 3人目がケツァル少佐に向き直った。

「ケツァル、そこで縮こまっている男を束縛せよ。」
「承知。」

 ケツァル少佐はスワレ=メナクを引き起こし、残っていたロープで後ろ手に縛り上げた。3人目の長老が薄刃のナイフを取り出し、男の前に屈み込んだ。

「聖地を汚す罪を知っているな?」

 彼がいきなり手を動かしたので、男が悲鳴を上げた。シオドアは3人目の長老が何をしたのかすぐにわからなかった。びっくりして男の様子を見ようとしたが、足元にジャガーがすり寄って来たので前に出られなかった。女性の長老がシオドアの為に教えてくれた。

「目を使えない様にしただけです。」

 目を潰したのか? シオドアはゾッとした。メナクはスワレが死んだ様なことを語っていたが、肉体の苦痛を感じたり、機能の低下は辛い様だ。
 3人目が罪人を立たせた。5人目が4人目にシャベス軍曹を運ぶ手伝いを要請した。

「年寄りの仕事ではないぞ。」

と4人目が文句を言ったので、シオドアはおかしく思えたが笑うのを控えた。3人目が宥めた。

「ここにいる若い連中は使えぬ。白人は神殿に入れられぬ。それでなくともマレンカの小僧が白人女を入れたので清めの為に女官達が奔走しておるのだ。ケツァルは手負で力仕事を任せられぬ。黒猫はまだナワルを解いておらぬ。解けても暫く動けぬだろう。」

 長老達は、罪人と怪我人を運んで暗闇の中へ消えていった。
 
 静寂が洞窟内に戻って来た。
 シオドアは命綱を片付け、ケツァル少佐も装備をリュックに片付けた。彼女がシャベス軍曹に投げつけたのは、温パック用に持参した使い捨てカイロだった。水泳で冷えたステファン大尉の為に使用しようとリュックから掴み出したところで、シャベス軍曹の存在に気がついたのだった。
 2人がせっせと作業をしている間、黒いジャガーは岩の上に寝そべって見物していた。ゴロゴロ喉を鳴らす音が響いていた。シオドアが声をかけた。

「おい、寝てないで手伝えよ。」
「放っておきなさい。」

と少佐が地面に罪人の血が落ちていないか確認しながら言った。

「ナワルを解いても寝てるだけです。すぐには役に立ちません。」
「それじゃ、猫と同じじゃないか。」

 2人で言いたい放題だ。

「どうやって帰るんだ?」
「暗がりの神殿までなら、”入り口”を使えるでしょう。」
「そこからは?」
「歩きです。」
「俺たちは太陽神殿へ行く通路を使えないのか?」
「無理です。私も権限を与えられていません。」
「ロホは空間通路でめっちゃ早く帰れたんだよな?」
「ロホだから出来たのです。私が普通の”入り口”を見つける迄はひたすら歩きです。」

 荷造りが終わったので、シオドアは黒いジャガーのそばへ行った。ジャガーが緑色の目で彼を見上げた。シオドアは屈み込んで、ビロードの様な毛皮を撫でた。本当に美しい獣だ。強くて逞しい。古代の人々が神として崇めたのも理解出来る。

「もしかすると親父さんの無実が認められるかも知れないな。少なくとも、殺人の罪は免れると俺は思う。君は親父さんのことを堂々と語れるんだ。」

 ジャガーが目を閉じて頭をシオドアの胸に押し付けて来た。シオドアはその逞しい首を抱いてやった。ゴロゴロ・・・ジャガーが喉を鳴らし続けた。
 少佐が呟いた。

「ジャガーもリュックを背負えるかしらね・・・」

 天井や鯨を覆う無数の光の点達が笑ったかの様に瞬いた。


1 件のコメント:

Jun Tacci aka ねこまんま さんのコメント...

原作の長老会はエル・ジャガー・ネグロを大神官と見做し、敬語を使って話しかけるが、ブログ版ではただのグラダ族の男として彼に口を利いている。
実際ステファンは大神官の修行をしていないし、白人の血が流れているので大神官の資格がない。

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