2021/08/25

第2部 バナナ畑  5

  翌日、グラダ大学生物学部の発生遺伝学教室の受講生達はアルスト先生の早口の講義と難解なリポートの宿題に迷惑を被った。しかしこれが初めてと言う訳ではなかったので、アルスト先生はまた珍しい遺伝子を探す旅行に出るつもりなんだな、と諦めた。学生に宿題をさせている間にテオはしばしば2、3週間首都を留守にすることがあった。そして戻って来るとジャングルで採取した昆虫や植物を分析しているのだ。何か新しいことを探しているんだな、と学生達は思った。
 実のところテオは何も探していなかった。全くの私用で休講するのを誤魔化す為に研究しているだけだ。そしてその日はただのランチデイトだった。彼が遅れるとひどく機嫌が悪くなる大事な女性とのデイトだ。
 食べるための教職をこなして、昼食を食べる為にテオはカフェテリアに直行した。
 彼女は既に到着していて、壁に近いテーブルに席を取っていた。若い男子学生達が振り返る。年上でも知的な美人は気になるのだ。テオが歩いて行くと、プレイボーイで名高い法学部の教授が早速彼女にアタックを試みていた。ケツァル少佐はグラダ大学の卒業生だから古くからいる教職員の間では有名なのだが、この教授は新入りだ。自分のトレイをテーブルに置いて彼女の正面の席に座ろうとした。しかし彼が座ってしまう前に彼女が身分証を出した。プラスティックカードケースに入った緑色の鳥の形の徽章が陽光でキラリと輝いた。教授がギョッとして身を引いた。

「ペルドネーメ、少佐。」(失礼しました)

 教授は離れて行った。テオはニヤリと笑った。大統領警護隊、通称ロス・パハロス・ヴェルデス(緑の鳥)は少しも怖くないのに。しかしセルバ共和国のエリート部隊は国民から一目置かれているのだ。

「コモ・テ・バ? 少佐!」(元気?)

とテオは勢いよく挨拶した。さっきの法学の教授が振り向いた。ちょっとびっくりしている。テオは優越感を感じながら少佐のそばに行った。ケツァル少佐が座ったままで彼と握手した。大統領警護隊が市民と握手するなんて滅多にないことだ。先住民に握手の習慣はないし、敵味方の判断がつかない他人に素手を差し出したりしない。女性の先住民は尚更だ。親族の男性でなければ手を触れさせない。だから少佐が握手に応じてくれると、テオは己が彼女にとって特別なんだと思えて嬉しくなる。彼女が「コモ・テ・バ?」ではなく「コモ・エスタ?」(ご機嫌如何?)と堅苦しく言っても気にならない。寧ろ彼女が挨拶してくれること自体光栄だ。仕事で必要な場合を除いて、少佐は気に入らない相手には失礼な態度を平気で取る人だからだ。
 テオはテーブルにトレイを置いた。少佐の前には山盛りの料理を載せたトレイが置かれている。ケツァル少佐は美しい外観に似合わず大食漢だった。これには理由があった。少佐はグラダ族と言う”ヴェルデ・シエロ”の中でも最強と言われる部族の唯一の純血種だ。グラダ族は正に神と呼ばれるに相応しい強大な超能力を持つが、その分消費エネルギーも半端でない。特に力を使った後は極端な空腹を感じるらしい。少佐はその日午前中のオフィスワークでエネルギーを使ったのか、大きな肉団子を3個も食べた。食べ方は上品だが、スピードがあるのであっという間に皿が空になった。野菜もモリモリ食べてしまう。テオは内心「これで割り勘かよ?」と疑問を感じたが黙っていた。
 ある程度お腹が満たされると彼女は食べるスピードを緩め、最近の彼女のオフィスの話を始めた。副官のカルロ・ステファン大尉が本部に逆出向していなくなったので、大尉がしていた予算計上の仕事を中尉のロホが行っている。ロホは遺跡発掘隊の警護をする陸軍の人員や兵備の規模を考える仕事もしているので、今は多忙で遊ぶ暇がないし、好きなサッカーの練習も出来ないでいる。ケツァル少佐は、本部は大尉を取ったのだから人員を一人文化保護担当部に回して欲しい、と司令官に要求しているのだが、なかなか通らないのだと愚痴った。
 ステファン大尉が文化保護担当部からいなくなったのは、テオも寂しかった。生死を賭けた冒険を1度ならず3度も共にした仲だ。7歳年下だが対等に話が出来た。そして同じ女性を愛するライバルでもあるのだ。
 大統領警護隊本部がステファン大尉を本部に召喚したのは、ある2つの目的があったからだ。一つは大尉のグラダ族としての能力を更に開発させる為の訓練だ。ステファンは白人と普通の先住民”ヴェルデ・ティエラ”の血が混じるミックスの”ヴェルデ・シエロ”だ。しかも”ヴェルデ・シエロ”の部分もグラダ族とブーカ族が混ざっているので、純血種であるケツァル少佐みたいに生まれつき自然に能力を使いこなすことが出来ない。下手をすると感情に流されて能力を暴走させる恐れがあるので、司令官は彼を教育し直すことに決めたのだ。これはテオも無理からぬことだと納得した。ステファンは能力を使いこなせずに少年時代からずっと苦しんできたのだから、ここで修行し直して自信をつけることが重要だと思えた。
 もう一つの目的がテオには教えられていなかった。少佐は知っている様だが、他の部下達は知らないようで、テオと共にステファンが滅多に警護隊の基地から出てこない理由がわからず寂しがっていた。修行だけなら休暇をもらえそうなものだが。

1 件のコメント:

Jun Tacci aka ねこまんま さんのコメント...

原作では少佐とステファン大尉は婚約している。
しかし、少佐はもっと自由であるべきだ。
だからここでは2人は婚約していない。

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