2021/08/05

太陽の野  9

  ケツァル少佐は客間のベッドを使わせてくれたが、シオドアはアリアナが心配でよく眠れなかった。恋愛感情は持っていなかったが、生まれた時からそばにいたのだ。血が繋がっていなくても妹だった。喧嘩もしたし、男女の関係になったこともあったが、家族だと思える人だった。しかし、その関係に甘えて彼女を構ってやらなかった。アリアナは孤独だったのだ。アメリカでもセルバでも。優しい言葉をかけてくれる護衛に気を許したのだ。そしてシャベス軍曹も油断した。何者かが侵入して2人を誘拐してしまった。
 眠れぬまま一夜明けた。キッチンで物音がしたので、シオドアは客間から出た。キッチンへ行くと、緯度が低い国の早い朝日が差し込む明るいキッチンでケツァル少佐が朝食の準備に孤軍奮闘していた。テーブルの中央にパイナップル、スイカ、マンゴーなどの果物が大雑把に切り分けられて盛り付けられ、申し訳程度の量のクロワッサンが籠に入れて置かれ、白身がしっかり焦げた目玉焼きが皿に載せられた。

「ブエノス・ディアス!」

と声をかけると、返事をしてくれたが、豆を煮込むのに忙しそうだ。セルバ人は煮込み豆が好きなのだ。貧しい家庭でも煮込み豆の缶詰は必ず常備している。シオドアはコーヒーを淹れて手伝った。

「いつも朝食は自分で作るのかい?」
「スィ。でも豆は1週間分作り置きします。今朝は切らしていたんです。」

 そしていきなり怒鳴った。

「起床!」

 リビングのソファで寝ていたロホが跳び起きた。時計を見て慌てたので、本当に寝過ごしたらしい。ロホは朝の挨拶もせずにバスルームへ駆け込んだ。シオドアは時計を見て、まだ省庁の開庁時刻に十分間があることを確認した。ロホはこのアパートから直接出勤する予定だから、少佐は単に日常の時間帯で彼を起こしただけなのだ。普段真面目なロホが少佐の側ではよく失敗する。恐らく、どこかに少佐への甘えがあるのだ、とシオドアは思った。ステファン大尉もアスルもそうだ。大統領警護隊文化保護担当部の男達は優秀なのだが、指揮官が優れ者過ぎて甘えてしまっている。ロホは官舎で寝ていれば遅刻などしないのだ、きっと。
 少佐が豆の鍋を火から下ろして3枚の皿に適量に盛りつけた。残りは冷蔵庫行きだろう。そこへロホが戻って来た。スッキリした顔になって、敬礼で朝の挨拶をした。
 朝食のテーブルを囲んで、ロホがアリアナを誘拐した犯人の目的は何だろうと言った。シオドアも思いつかなかった。亡命者を襲ったのだから遺伝病理学研究所関係のアメリカ人か、雇われたセルバ人だと思ったのだが、昨夜の鏡の文字が気になった。するとロホが前夜言いかけて言えなかったことを教えてくれた。

「あの鏡の文章は単語を間違えていると言いましたね?」
「うん、君は確かにそう言った。」
「原語は神聖な言葉なのでみだりに口に出来ないのですが、一つの単語がよく似た発音の言葉でそのままスペイン語に訳されていたのです。」
「ええっと・・・それはどう言う意味かな?」
「銀と言う単語がありましたね?」
「スィ。銀の鯨、と書いてあった。」
「原語は 星の鯨 なのです。原語の”銀の”と”星の”は発音がよく似ています。神代文字も似ているのです。」
「それじゃ、神様を讃える言葉は、太陽の野に星の鯨が眠っている ?」
「スィ。鏡にあの呪文を書いたヤツが故意に間違えた単語を書いたのか、或いは間違えて覚えているのか・・・」

 すると少佐が言った。

「”ヴェルデ・ティエラ”は”銀の”で覚えていますから、書いたヤツは”ティエラ”のふりをしたか、或いは本当に”ティエラ”なのか、と言うことです。」
「だけど、”操心”を使っただろう、犯人は。つまり、フリをしたんだ。」
「どうしてそんなバレバレのフリをするのです?」

とロホが問うと、少佐が推理を言った。

「憲兵隊には”ティエラ”だと思わせておきたいのでしょう。現に憲兵隊はシャベス軍曹がアリアナを誘拐したと考えている様です。キルマ中尉は部下に濡れ衣を着せられたと怒っていますよ。」
「しかし、”シエロ”が犯人だとして、どうして亡命アメリカ人を襲うのです?」

 すると、少佐がロホの目を見た。シオドアは彼女が一瞬にしてステファン大尉暗殺未遂事件の説明を彼に伝えたのだとわかった。ロホの顔色が変わったからだ。

「トゥパル・スワレ様がカルロの命を狙っている・・・? そして・・・」

 それ以上言わなかった部分は、恐らくケツァル少佐とステファン大尉の個人的な関係だ。シオドアは彼が思い悩む時間を与えたくなくて、素早く質問した。

「君はブーカ族の名家の出だろう? スワレ家も名門だと聞いたけど・・・」
「私はスワレ家の人と面識がありません。」

 ロホが不機嫌な顔で答えた。

「私の家は宗教的な職務で地位を保っています。スワレ家は昔から政治一筋です。古代社会の宗教と政治は一体でしたが、”ティエラ”にセルバの支配権を奪われて・・・譲ってからは政教分離で我々はやって来ました。その方が正体がバレずに済みますから。スワレ家から”砂の民”を出すことはあっても、マレンカ家から出したことはありません。」

 シオドアはそこで昨夜の疑問が一つ解決したことを知った。

「マレンカと言うのは、君の実家の本当の名前なんだね?」

 すると少佐がさりげなく言った。

「アルフォンソ・マルティネスは市民に覚えられやすい様に彼が自分で付けた名前です。本名はアルファット・マレンカです。」

 ロホは顔を少々赤らめて、「アルフォンソ・マルティネスの方が良いです」と言った。少佐がまた言った。

「野球やサッカーの有名選手にマルティネスが多いですからね。」

 そんな子供っぽい理由か? シオドアがロホを見ると、ロホはますます赤くなった。少佐の言葉は本当らしい。

「と・・・兎に角、ブーカ族だからと言って、私の実家とスワレの家は付き合いがないのです。祖父は長老会のメンバーですが、トゥパル・スワレと友達だと聞いたことはありません。会合に必ずしも全員が出席するとは限らないし・・・」
「長老会の会合は仮面を被って行うのです。」

と少佐が説明した。

「声も仮面を通すのでいつもと違って聞こえます。誰がどの意見を言ったか、互いにわからない様に行います。私は長老会に出る年齢ではありませんが、先輩方の”心話”で風景を見せてもらったことがあります。山羊の脂で火を灯した暗がりの中で行われる会議で、見て気持ちの良いものではありませんでした。そこで”砂の民”に誰を処分させるか決めたり、次の選挙で誰を支持して当選に持ち込むか決めるのです。」
「セルバの闇の国会か・・・」

 シオドアは少佐とロホを見た。

「アリアナを攫ったのは、やっぱりトゥパル・スワレの手下なのかな?」
「”太陽の野に銀の鯨が眠っている”と言うフレーズが気になりますね。」

とロホが憂い顔で言った。

「一族皆殺しの予告ですから・・・少佐が仰ったシュカワラスキ・マナと言う人の血統を滅ぼすと言うことであれば、カルロだけでなく、彼の妹も少佐も入るのではないですか? 」
「だけど、トゥパルがマナを殺害した証拠はないだろう。もしカルロが彼を父親の仇と考えることをトゥパル自身が恐れているとしたら、マナの血統を根絶やしにすることは却ってマズいんじゃないか? 長老会に怪しまれると思うが・・・」

 喋りながら、シオドアはテーブルの中央に山盛りになっていた果物が既に消滅しかけている事実に気がついて愕然とした。少佐の前にパイナップルやスイカの皮が山積みされている。いつの間に食べたんだ?
 ロホは豆にしか興味がないらしく、彼自身の分を平らげると、コンロに残されている鍋をチラリと見た。少佐が舌打ちこそしなかったが、チェっと言いたげな表情をして、席を立ち鍋を持ってきた。ロホの皿にお代わりを入れてやる。優しい上官だ。
 
「ここであれやこれや論じていても仕方がありません。憲兵隊と特殊部隊が何か手がかりをつかんでいないか、後で電話を入れておきます。いつもの様に仕事に行きましょう。早く食べてしまいなさい。」

 シオドアは2切れしか残っていないパイナップル、スイカ、マンゴーを一切れずつ皿に取り、バナナも1本取った。ロホがパイナップルは要らないのでシオドアに食べて良いと言ったので、少佐が笑った。

「マレンカは我々の古い言葉で、パイナップルの意味です。」
「それじゃ、マルティネスの方が良いよな。」

 シオドアも笑ったので、ロホはむくれた。彼は強引に話題を変えた。

「今日はアスルが退院してきます。事件を伝えた方が良いですか?」
「ノ。」

と少佐が速攻で答えた。

「暫くはこの3人だけの話にしましょう。ドクトルは普通に大学に行きますか?」
「行くけど、大学事務局に事件の報告はしなきゃいけない。きっと内務省からも連絡が行くだろうし。」
「わかりました。では、貴方を大学に送ってから、私はオフィスに出勤します。夕刻は私達のところへ来て下さい。下のカフェで落ち合いましょう。貴方が何処へ帰るか、それから決めます。」

 


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第11部  紅い水晶     19

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