2021/08/04

太陽の野  8

  シオドアは室内の気温が3度ばかり下がった様な寒気を覚えた。ケツァル少佐が不機嫌な顔をして鏡を見つめていた。少佐だけではない、ロホも強張った表情で鏡面を睨みつけていた。シオドアは背後で憲兵達がヒソヒソと話をしているのに気がついた。鑑識の係官も1箇所に固まってバスルームを見ている。キルマ中尉が小声で言った。

「憲兵達が動揺している。」

 するとロホが振り返った。

「私が鎮めてきます。」

 彼は少佐の返事を待たずに、憲兵達の方へ歩いて行った。シオドアはまだ意味がわからなかった。鏡に文字を書いたのは、恐らくアリアナを拉致した犯人なのだろう。しかし文章の意味がわからない。憲兵達が動揺する理由がわからない。
 キルマ中尉がまた言った。

「神代文字でなくて良かった。」
「エクサクト・・・」

と少佐が同意の声を出した。シオドアは後ろを振り返った。ロホが憲兵達を宥めていた。

「ただの嫌がらせだ。君達に悪意を向けているのではない。」

 屈強な兵士である筈の憲兵達が何に動揺しているのか、シオドアはまだ理解出来ないでいた。ケツァル少佐が鑑識班を振り返り、鏡の写真を撮ったのかと尋ねた。鑑識の連中は互いに顔を見合わせ、やがて一人が決心したかの様に前に進み出て、バスルームに入った。フラッシュを焚いて写真を撮ると、彼は少佐に尋ねた。

「指紋も採取しますか?」

 少佐は粉が振りかけられている鏡面を見た。

「お願いする。これはただのガラスの鏡だ。」

 少佐の口調はすっかり軍人のものだった。特殊部隊にも憲兵隊にも命令を下せる大統領警護隊の口調だ。少佐が鏡の前に立っているので、鑑識班は勇気づけられた様だ。急にテキパキと動き出した。
 シオドアはロホに宥められた憲兵達が慌てて仕事に戻るのを見た。キルマ中尉は憲兵隊を冷ややかに眺め、それからリビングへ出て行った。彼女の野太い声が特殊部隊の兵士に集合をかけた。

「シャベスの車を探せ! グラダ・シティを出る前に捕まえろ。」

 兵士達が「おう!」と声を上げて家から出て行った。キルマ中尉は憲兵隊の指揮官と少し言葉のやり取りをしてから、部下の後を追って出て行った。
 鑑識が鏡の指紋採取を終えたと報告した。ケツァル少佐が彼等に命じた。

「その文字を消せ。くだらない悪戯だ。」

 鑑識が大喜びで鏡を拭き始めたので、シオドアはロホのそばへ行った。ロホが彼を見て苦笑した。

「セルバ人でなければ先刻の事態を理解出来ないでしょうね。」
「あれは何だ? アリアナを攫ったヤツが残したんだと思うが、俺には意味がわからない。」
「あれは”ヴェルデ・ティエラ”の迷信で、見た者の一族を一人残らず殺すと言う呪いの呪文なのです。」
「”ヴェルデ・ティエラ”の?」

 意外だった。キルマ中尉が「神代文字」と言ったので、”ヴェルデ・シエロ”に関係した文だと思ったのだ。するとロホが声を潜めて解説した。

「元は”ヴェルデ・シエロ”の神殿の壁に書かれていた文句です。文字と言っても、神代文字と呼ばれる象形文字なのですが、新しい時代の人間である”ヴェルデ・ティエラ”にとっては太古に滅んだ種族の文字ですから、読めませんでした。いつの時代にか誰かが翻訳して、神代文字のまま部族戦争の時に戦う相手を呪う言葉として用いたのです。それが現代も残っていて、不良グループの喧嘩で使われる程度なら可愛いですが、反政府ゲリラや麻薬密売組織が敵対する相手、主に政府軍に宣戦布告する時に使うのです。」
「それで憲兵隊が心穏やかじゃなかったのか。しかし、太陽の野に銀の鯨が眠っている・・・綺麗な詩の様に思えるが・・・」
「”ヴェルデ・ティエラ”には、『あの世で眠れ』と言う意味に採られています。」
「本来は違うのか?」
「貴方が感じた様に、あれは神を讃える”ヴェルデ・シエロ”の言葉です。それに単語を間違えている。だから少佐もキルマ中尉も、そして私も不愉快に感じたのです。」
「単語を間違えている?」

 その時鑑識班がバスルームの鏡を拭き終わったので、ケツァル少佐がバスルームから離れた。時計を見て、彼女はロペス少佐を呼んだ。シーロ・ロペス少佐が疲れた顔でやって来た。内務大臣に事件を電話で報告し、きっと叱責を受けたのだろう、シオドアを不愉快そうに見た。ケツァル少佐は捜査に関して一切触れずに、

「私は今日はこれで撤収します。」

と言った。ロペスは反対せずに頷いた。大統領警護隊の仕事はここにない。ケツァル少佐がシオドアを見てさらに言った。

「ドクトル・アルストをここに置けません。私のアパートに保護します。」

え? とシオドアは驚いたが、ロペス少佐もちょっとショックだった様だ。独身で独居生活をしている美人が、白人の男を自宅へ連れて行く? ケツァル少佐はロホを振り返った。

「貴方も官舎の門限が過ぎてしまっていますから、うちで泊まりなさい。官舎には私から連絡を入れておきます。」
「感謝します。」

 ロホが素直にホッとした表情をした。そしてシオドアに荷物を持って行くようにとアドバイスをくれた。
 ケツァル少佐は2人の男を率いて家から出た。ロホのバイクを見て、憲兵隊の指揮官を呼んだ。

「車と運転手を1台半時間ほどお借りしたい。」

 シオドアは少佐が憲兵隊や特殊部隊と話をする時は大統領警護隊として上から目線で話すことに気がついた。偉ぶっているのではなく、彼等の守護者である警護隊として強いところを見せているのだ。先刻ロホが鏡の文字を見て動揺した憲兵達を宥めた様に、守護者がいるから安心して任務に励めと示しているのだった。憲兵達も半月足らずのうちに負傷から復活したケツァル少佐に声を掛けられて張り切っていた。
 シオドアと少佐は憲兵隊の車で少佐のアパートへ向かった。ロホはバイクでついて来た。ステファン大尉のアパートで家を買う相談をしていたのが遠い昔の様に思えた。


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