2021/08/22

星の鯨  15

  部下達とアリアナが去って、ケツァル少佐のアパートは静かになった。食器洗いは部下達がやってくれたし、椅子やテーブルも元に戻して帰ったので、少佐はのんびりソファに座って、シオドアが掃除機を床にかけるのを眺めていた。家事はあまりやらない主義だ。実家も自宅もメイドがいるし、家事らしきことをしたのは大統領警護隊の訓練生だった時くらいだ。金持ちが家事をやらないのは、メイドの仕事を取ってしまわないための心得だ。少佐が怠け者なのではない。それにその日は長い話を語ったので、彼女は疲れていた。元気な時ならワインかブランデーでも一杯やって寝るのだが、心臓の傷を気遣って彼女は我慢していた。だがシオドアには礼を言いたかったので、彼が掃除機を片付けてリビングに戻るとテーブルの上にブランデーの瓶とグラスを用意していた。

「メイドの仕事を取ってしまったお仕置きに、一杯召し上がって下さい。」
「そんな罰があるかい?」

 シオドアは笑いながら彼女の隣に座った。少佐が彼の前にブランデーを、彼女自身には水を入れたグラスを置いた。

「本当にアリアナがカンクンに行くことを知らなかったのですか?」
「知らなかった。」

 シオドアはグラスに酒を注ぎ入れた。少佐がつまらなそうな顔をした。

「やっと心が繋がりかけたのに・・・」
「そこで切れたりしないさ。電話でもメールでもしてやってくれよ。きっと喜ぶさ。」
「近くにいてくれた方が嬉しいのですけど・・・シーロも意地悪です。」

 少佐は同僚の愚痴をこぼした。シオドアは何となくロペス少佐がアリアナを国外へ行かせる理由に心当たりがあった。

「アリアナは少し異性関係にだらしないところがあった。カルロにもシャベス軍曹にも簡単に手を出した。今度の事件でスワレにそれを利用され付け込まれた。ロペス少佐はわかっていた様だ。放置しておいたら、”砂の民”を動かすことになってしまう。ロペス少佐は彼女を守るために、メキシコ行きを勧めてくれた。俺はそう信じる。」

 ケツァル少佐が水を一口飲んだ。

「ことは恋愛問題だけに収まらないと言うことなのですね。そう・・・”砂の民”が介入してきたら、ゲームも何もあったものではありませんから。」
「ゲーム?」

 シオドアが怪訝な顔をしたので、彼女はけろりとした顔で言った。

「恋人の争奪戦です。誰がカルロを取って、誰が貴方を取るか。」
「はぁ?」

 シオドアは彼女に向き直った。

「誰と誰が、カルロと俺を取り合っているんだ?」
「気になります?」
「気になる。」
「教えません。」

 少佐は立ち上がった。

「選択肢はもっと多いです。参加者も増えていきますからね。」

 訳のわからないことを言って、彼女はバスルームに向かって歩き出した。

「今夜は泊まって行かれます?」
「いや・・・寮に戻らないと、またロペスに叱られる。」
「でも、カルロは自宅に直帰です。私は今夜車を運転したくありません。帰りの足はありませんよ。」
「歩いて帰るさ。」

 少佐が足を止めて振り返った。見つめられてシオドアはドキドキした。

「ここから寮迄の距離を歩いて行かれるのですか?」
「・・・」
「路上強盗と言う言葉をご存知?」
「・・・」
「タクシーもこの時間はありませんよ。」
「少佐・・・」
「何です?」
「俺に泊まって欲しいのか?」

 暫く彼は少佐と目を見つめ合った。”心話”は通じなかった。彼は普通の男として、女の気持ちを考えなければならなかった。少佐は先住民で、先住民は単刀直入な物言いをしない。しかし、彼女はちゃんと意思表示をしたのだ。「今夜は泊まって行かれます?」と。
 シオドアは折れた。

「わかった・・・申し訳ないが、泊めてくれないかな・・・」

 入浴の支度をしてもらって、シオドアは風呂に入った。着替えはなかったが、乾燥機付き洗濯機があったので、そこに服を入れて洗濯した。バスローブだけ身につけてリビングに戻ると、少佐が客間を準備してくれていた。彼女の寝室ではないのだ。思い起こせば、以前泊まった時も彼は客間でロホはリビングだった。アメリカのセルバ大使館、ミゲール大使の私邸でも、彼女はステファンを彼女の部屋に入れたが、ステファンは彼女のベッドで彼女自身はハンモックだったのだ。
 少佐はアリアナではない。 シオドアは己の心に言い聞かせた。
 ベッドに入り、目を閉じた。アリアナとステファンは何事もなくそれぞれ帰宅したのだろうか。アリアナは己がメキシコへ行くことになった原因を理解した様だった。それなら今夜は何事もなく別れただろう。ステファンも彼女の誘惑に負けることはない筈だ。今以上に事態をややこしくしたくないだろうから。
 ブランデーが効いて彼は眠りに落ちた。 

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第11部  紅い水晶     19

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