2021/08/09

太陽の野  22

  少佐の胸からナイフが抜けたのは5時間も後のことだった。その間にアリアナが目を覚まし、シオドアとロホに励まされて落ち着きを取り戻した。
 彼女は誘拐された時のことを覚えていた。シャベス軍曹と寝室で個人的な関係になって(と彼女は表現した)彼の任務を妨害してしまったことを彼女は後悔した。ロホが、襲撃者が”ヴェルデ・シエロ”ならシャベスがどんなに優秀でも侵入を防げなかった、と慰めた。シャベスは玄関の方角で物音を聞いて、夜間の当番が来たのかと慌てた。彼は急いで服を着て寝室から出て行った。アリアナはそれっきり彼に関する記憶がなかった。寝室のドアが開き、シャベスが戻って来たと思って振り返ると、見知らぬ男性が戸口に立っていた。

「お年寄りだった・・・それ以上は思い出せないの・・・」

 男の目を見てしまって、それからこの地下神殿で目覚める迄の記憶が全くなかったのだ。だから彼女はケツァル少佐の状態を見て、酷く怯えた。

「もしかして、シャベス軍曹がやったの? それとも・・・私が?」

 ロホが彼女をしっかりと見据えて言った。

「刺したのは、トゥパル・スワレです。貴女とシャベスを襲った人物です。」

 暗いので彼女の衣服に付着した飛沫血痕が彼女には見えていなかった。シャベス軍曹の行方が不明なのが気がかりだったが、シオドアはアリアナに手伝いをさせることにした。

「君は医学者だから、少佐のそばについてやって欲しい。カルロが要求したら水を飲ませてやってくれ。彼の指図に従うこと。一切反論したり意見を言ったりしては駄目だ。彼の気が散るからね。もし対応しきれなかったら、ロホか俺を呼んでくれ。」

 アリアナは頷いて、ケツァル少佐とステファン大尉の側に行って膝をついた。少佐の顔を湿らせた布でそっと拭ったり、唇に水分を垂らしたりして世話をしたが、ステファン大尉には触れなかった。彼の集中する様を間近に見て、指一本触れられないと感じたに違いない。
 シオドアはロホの許可を得て、水汲みに出た。ロホが記憶している地図に従えば、神殿の右手を真っ直ぐ歩き、坂を下って突き当たった壁を今度は右に折れて壁沿いに歩くと地下の水流に行き当たる筈だった。

「水面と地面の落差が地図には書かれていないので、もし高さがあれば無理をせずに戻って下さい。必ず来た道を歩くこと。落ちたり迷ったりしないで下さいね。」

 子供に言い聞かせるみたいに言われて、シオドアは苦笑した。少佐のアサルトライフルを借りて肩から担ぐと想像したより重量があった。伸縮バケツと全員の水筒を持って、ヘッドライトと携帯ライトで出かけた。途中で岩に傷をつけて帰りの道標にした。
 言われた通りに歩いて行くと、ずっと聞こえていた水音が少しずつ大きくなってきた。想像したより大きな地下水流がある様だ。水汲み出来る規模だろうか? 少し心配になった。
 いきなり目の前の空間が開けた。透明な水、しかし深度があるのか下の方は青く見えた。流れがある。右から左へ流れていた。左側は天井がどんどん低くなり、水流は岩盤の向こうに吸い込まれていた。右側はライトの光の奥に滝があった。ライトを上へ移動すると、上流にも空間がある様に思えた。闇の中で何かがキラキラと光った。一瞬空の星かと思った。そして鉱物だろうと思い直した。
 無事に水を汲んで戻ると、ロホが珍しくホッと安堵の表情で迎えてくれた。シオドアが戻る迄心配で堪らなかったのだろう。シオドアが彼の水筒を渡すと、すぐに水を飲んだ。そして言った。

「少佐の胸からもうすぐナイフが抜けます。火を焚きましょう。針を消毒して縫合しなくては。」

 少佐達のそばへ行くと、アリアナが少佐の軍服の前身頃を切り開いて、縫合の準備に取り掛かっていた。少佐を刺した本人にその作業を許しているステファン大尉は最後の最大の緊張感の中にいた。彼の邪魔をしないように、アリアナは彼女自身の位置を何度も変えて服を切断していたのだ。
 アリアナがシオドアに囁いた。

「彼女の肩を抑えて。彼女の傷をライトで照らして。」

 シオドアはステファン大尉と向かい合う形で膝を突き、少佐の両肩に手を置いた。ロホが固形燃料に火を点け、針を炙り、糸を通した。アリアナがナイフの側にガーゼの塊を当てて、ステファンの顔を見た。

「抜いて!」

と彼女が医者の顔で命令した。ステファンが躊躇うことなくナイフを掴んで引き上げた。既に重力に逆らって立った状態だったナイフはその刃先を1センチ少佐の胸に残すのみになっていた。抜けた瞬間に少佐の体がビクンと跳ねかけてシオドアは両肩を押さえつけた。ステファンも体重を少佐の腰に落とした。さらに少佐の両手首を自分の手で地面に押さえつけた。アリアナが傷口をガーゼで抑えた。

「次のガーゼ!」

 彼女の叫び声にロホが応じた。新しいガーゼで傷口を抑えたアリアナが少佐に向かって怒鳴った。

「出血を止めて下さい! 血を止めて、少佐!」

 シオドアは空気の温度が5度ばかり一気に落ちた気がした。物凄く寒い。ケツァル少佐が眉間に皺を寄せた。全身に力が入った・・・と思ったら、突然抵抗がなくなった。

「少佐?」

 思わず声をかけると、アリアナは落ち着いて傷口を拭った。新しい血は出て来なかった。

「グラシャス、少佐。」

と彼女は呟き、ロホに針と糸を要求した。 シオドアは訳が分からなかった。ロホを見ると、ロホが囁いた。

「アリアナは今、少佐と”連結”しています。」
「え?」

 アリアナは外科医ではない。遺伝子を分析して病気の治療法を考える研究医だ。しかし彼女は今、針と糸を使って少佐の胸の傷を縫合していた。

「”操心”ではなく、”連結”?」
「スィ。少佐がアリアナの腕に教えているのです。アリアナは少佐の手当てをしたいと思い、その方法を少佐が彼女の腕を使って教えているのです。でもアリアナにはその自覚はありません。」

 人間の皮膚を縫うところを見るのは、いつも苦手だ。シオドアは目を瞑りたくなった。しかしアリアナの作業から目を逸らすのも不安だった。医者と言っても外科手術には素人なのだ、彼女は。彼女が遂に最後の一針を結び終えた途端、彼は思わず天井を見上げて神への感謝の言葉を口にしていた。
 アリアナが大きく息を吐いた。ロホが新しいガーゼで少佐の傷口を拭い、別のガーゼで覆ってテープを貼った。心臓の手術にしては安易過ぎる処置だ。ステファン大尉がまだ少佐の体を抑えたまま、シオドアに声をかけた。

「テオ、アリアナの手を洗ってあげて下さい。」

 シオドアは言われた通り、アリアナを少し離れた所へ誘導し、バケツの冷たい水で手を洗ってやった。良くやった、と声をかけてやると、彼女は涙を流していた。

「私、少しは償えたかしら・・・」
「アリアナ・・・」
「記憶にはないの。でも私が彼女を刺したんだわ。だって他に誰もいないもの。」

 シオドアは”妹”を抱き締めた。

「俺が君を放ったらかしにしたから、恐い目に遭わせてしまった。ごめんよ。誰も君を責めたりしない。君は”ヴェルデ・シエロ”の私怨に巻き込まれただけなんだ。皆んなはわかってくれている。」

 視線を少佐の方へ向けた。地面に置いた携帯ライトで寝ている少佐がぼんやりと照らされていた。まだステファンが彼女の腰の上に体重をかけた姿勢で、少佐の体を洗浄しているロホを見ていた。ロホは入念に少佐の皮膚に流れた血液を拭き取っていた。それがなんだかエロティックな光景に見えたので、不謹慎だと思いつつ、シオドアはつい品のない冗談を言ってしまった。

「君達、まるで少佐に悪いことをしている不良軍人に見えるぞ。」

 ロホが顔をあげてステファンを見た。ステファンもぎくりとして視線を少佐からロホに向けた。

  コイツら、本当に楽しんでやがったのか?

 ステファンがそそくさと少佐から下りた。ロホも手早く作業を終わらせ、己の上着を脱いで少佐の上半身にかけた。
 ステファン大尉が少佐の側に腰を下ろし、水筒の水をガブガブ飲んだ。ロホは汚れたガーゼや布切れを集めると、神殿の外に持ち出した。ジャングルでは汚物を地面に埋めたが、洞窟内に土はなかった。どこも岩だらけだ。彼は階段から2メートルばかり離れた位置に汚物を入れた袋を置いた。結界の内側だ。仲間の血を敵に渡す訳にいかないのだ。
 シオドアはアリアナを導いて少佐の側に戻った。少佐は目を閉じていたがその顔は穏やかに見えた。ステファン大尉も姿勢を崩して地面に横になった。消耗し尽くしていたのだ。
 シオドアは眠る気分ではなかった。主力の3人のうち2人が眠ってしまっているのだ。彼はロホにも休憩してくれと言った。

「ライフルなら俺にも扱える。耳を研ぎ澄まして敵が立てる音を聞いているよ。」

 ロホは逆らわなかった。

「では1時間だけ休ませてもらいます。」

 彼は神殿の床ではなく、入り口の柱の陰に入った。シオドアはアリアナを振り返った。彼女は少佐から抜け落ちたナイフを見ていた。そっと手を伸ばし、しかし指先が刃に触れると電流にでも触れたかの様にパッと手を引っ込めた。汚らわしい物を見るのも嫌とばかりにナイフから離れてシオドアの体に身を寄せた。シオドアは少佐から渡されていた拳銃を出した。

「使えるか?」
「ええ。」
「これで身を守れ。真っ暗な世界だから、俺は全員を守り切れる自信がない。」

 彼は彼女に拳銃を預けた。

「ライトを消した方が良くない? 敵に見られるわ。」
「向こうは闇の中でも見えるんだ。君も操られていた時は、灯なしで歩いて来たんだよ。」

と言ってから、シオドアは初めて気がついた。アリアナは何処からやって来たんだ? どの坑道を歩いて来た? ”ヴェルデ・シエロ”の友人達は彼女がやって来るのを見ていた。彼女が通ってきた方角を辿れば坑道の入り口がわかる筈では? 



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