2021/09/17

第3部 夜の闇  2

  テオドール・アルストは大統領警護隊文化保護担当部から要請を受けて、文化・教育省へ向かっていた。グラダ大学と文化・教育省は徒歩で10分の距離なのだが、お呼びがかかる日に限って彼は離れた場所にいた。大学の農業学部が経営する牧場で、牛達のDNAサンプル採取を行っていたのだ。ゼミの学生達と一緒に新しく生まれた仔牛の細胞をちょこっと頂く。最近、遺伝子操作された仔牛をある大手の食肉業者が購入しているのではないかと、市民団体の一つが騒ぎ出し、農業省からグラダ大学農業学部に調査依頼が来た。農業学部は遺伝子分析のエキスパートである生物学部の准教授テオドール・アルスト・ゴンザレスに仕事を丸投げしてきた。いかにもセルバ的なお役所仕事だ。それでテオは比較検査のためのサンプルを大学の牧場から採取する必要があったのだ。その月に生まれた仔牛10頭からサンプルを採取し終わった直後に、大統領警護隊文化保護担当部の副指揮官アルフォンソ・マルティネス中尉、通称ロホから電話がかかってきた。

ーーブエノス・ディアス、ご機嫌いかがですか?

 テオは額から流れる汗を拭きたかったが、手が牛の臭いで顔を拭ける状態ではなかった。目に汗が滲みて痛い。

「ブエノス・ディアス。ご機嫌良いとは言えないなぁ。牛臭くて・・・」

 牛の鳴き声がBGMになっていたので、ロホが尋ねた。

ーー大学に電話したら牧場におられると教えられたので、携帯にかけたのですが、本当だったのですね。乳搾りでもなさってるのですか?
「仕事だよ、ロホ。知ってるくせに、変なことを言うな。」

 ロホは真面目なイメージがあるイケメン軍人だが、時々ドキッとする冗談を言うので、油断ならない。セルバ人の男達の間で「乳搾り」と言えば、女性と遊んでいると言う暗語だ。女性との会話では使わない。職場で暗語を堂々と使っているのだから、恐らくロホの上官は席を外しているのだ。

「急ぎの用事かい? 急がなければ、一旦切って、手を洗って、こちらからかけ直すが・・・」
ーーノ、用件は短いです。

 ロホは本当に短く言った。

ーーお帰りの時で結構ですから、オフィスに立ち寄って下さい。

 そして「さようなら」と言って切った。テオの仕事の邪魔をしない配慮なのか、それとも彼自身の上官が戻って来たか、どちらかだろう。ロホの上官は部下が電話で長話をするのを好まない。
 テオは学生達に機材を片付けるように指図すると、手洗いに行った。石鹸でゴシゴシ洗ったが、牛の臭いは服にも染み込んだ様に臭った。これは時間をかけて取るより、自宅に帰って着替えた方が良さそうだ、と思えた。
 学生達に集合をかけ、現地解散を告げた。

「但し、サンプルを研究室に持って帰る人が必要だ。誰か引き受けてくれるか?」

 すぐに学生達が輪になって話し合いを始めた。数分後に学生寮に住んでいる男子学生が挙手したので、彼に研究室の鍵を預けた。サンプルを冷蔵庫に入れたら施錠して事務局に鍵を預けること、と言いつけた。そして一同には、

「今日の作業のレポートを明日提出すること。分析は明日の朝から始める。それじゃ、今日はお疲れ!」

と挨拶すると、学生達は午後から自由になったので大喜びで解散した。

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