2021/09/18

第3部 夜の闇  3

  テオは自宅に帰ってシャワーを浴び、服を着替えた。すぐに文化・教育省へ行くつもりで車に乗り込み、住宅街の道を走り出した。信号がない道路を低速で走っていると、見覚えのあるジープが道端に停車していた。車体に緑色の鳥の絵が描かれている。道幅の余裕があまりないので、徐行して横を通ると、軍服姿の大統領警護隊隊員が民家の塀の前に立って、空を見上げていた。庭の中にも1人いて、住民と話をしていた。塀の外の隊員に見覚えがあったので、テオは少し進んで路肩がわずかに広がった場所に停車した。
 車から降りて、大統領警護隊のジープに近づいた。

「オーラ、カルロ!」

と声をかけると、塀の外の隊員がサッと振り返った。軍人には珍しいゲバラ髭を生やすことを認められている数少ない若い隊員が、テオを認めると微笑した。

「オーラ、テオ! ああ、ご近所だったんですね。」
「スィ、2ブロック向こうの角を曲がった先だよ。」

 久しぶりの再会だったのでハグしたかったが、自重した。カルロ・ステファン大尉は同性とのハグ自体は嫌いでないのだが、相手の方から抱きつかれると固まってしまう癖がある。過去の不愉快な体験のトラウマだ。だからテオはステファンの方からハグして来ない限り、握手で我慢する。尤も大統領警護隊の隊員達は滅多に他人に体を触らせないのだが。
 テオは塀の中を見た。中にいる隊員は住民の指差す地面を見ていた。珍しくスマホで写真を撮っていた。

「何をしているんだ?」
「捜査です。」

 カルロ・ステファン大尉は警備班から独立して活動する遊撃班に転属していた。ルーティンに縛られず、他の班で欠員が出たら代理で任務に就いたり、上官の命令で本隊の外で短期間任務に就いたりする部署で、勿論エリート中のエリートが集まるグループだ。
 ステファンは捜査内容を住民に喋るつもりはなかったのだが、テオは別格だ。”ヴェルデ・シエロ”の秘密を知っている数少ない白人で、科学者だ。そしてステファンの親友だった。それに捜査している理由を知らせた方がテオの安全にも繋がると判断したので、彼は囁いた。

「昨夜、この辺りでジャガーを目撃したと言う通報があったのです。」
「ええ?!」

 テオは再び塀の中を見た。中にいる若い隊員が撮影していたのは、獣の足跡だったのだ。
彼は周辺を見渡した。普通の住宅地だ。緑地が多いが、それでもセルバ共和国の首都グラダ・シティの中心地からそんなに距離はない。所謂都会の中の住宅地だ。野生のジャガーが出没する訳がない。ジャガーの生息地は他国同様セルバ共和国でも年々開発で狭まって来ていた。本物のジャガーを見たければ、ティティオワ山の南に広がるジャングル地帯に入らなければならない。運が良ければ見られる、そんな希少動物だ。もし都会の真ん中でジャガーが現れるとしたら、それは動物のパンテラ・オンカではない。
 テオはステファンに囁き返した。

「誰かのナワルか?」
「それ以外に考えられません。」

 ステファンは通りの南を指差した。

「昨晩、あの辺りで犬達が騒いでいたそうです。どこかにジャガーが現れて、怯えた犬の感情が吠え声で伝染して行ったのでしょう。実際に何処までジャガーが出現したのか、定かではありません。今朝になって、この家の住民が庭に大きな足跡を見つけ、警察に通報しました。警察が大統領警護隊に連絡して来たので、我々が出動して来た訳です。」
「ナワルは無許可で使えないよな?」
「別に許可制ではありませんが、重要な儀式や特別な時に使うものです。深夜の徘徊に使用されては困ります。」

 ”ヴェルデ・シエロ”と呼ばれるセルバ共和国の古代の神様は、儀式の時にジャガーやネコ科の動物に変身した。それは国内にある遺跡の壁画や彫像に残されているし、”ヴェルデ・ティエラ”と呼ばれる現代の先住民の神話や言い伝えの中でも言及されている。そして”ヴェルデ・シエロ”は実在して、今も存在している。市民の中に混ざってひっそりと生きているのだ。大統領警護隊は”ヴェルデ・シエロ”だけで構成されている軍隊だ。彼等は古代からセルバ共和国を周辺国の侵略から守り、植民地時代は庶民の心の支えとなり、現代も土着信仰の形で敬われているが、実際は「ちょっと強力な超能力を持つ普通の人間」なのだ。
 動物に変身するナワルは、儀式や特殊な戦闘の時以外に使ってはならないとされている。無闇に使うと正体が他の種族にばれてしまうし、ナワルを解いて人間に戻ると極端な疲労で1、2日は動けなくなるので、敵の攻撃をかわせない。大統領警護隊では上官の許可無しに変身すると罰を与えられる。市井の”ヴェルデ・シエロ”は他人種とのミックスが多く、ナワルを使えない人が多い。偶に純血種や使えるミックスもいるが、そう言う人々は属する部族から厳しい掟を教え込まれており、ルールを守って暮らしているのだ。ナワルを使う儀式は滅多に行われないし、長老の認可の元で行われるべきものだった。
 ステファン大尉が出張って来たのは、無届けのナワル使用が疑われるので、調査が目的だった。彼が空を見上げていたのは、ナワルを使える”ヴェルデ・シエロ”の気の波動を感じ取ろうとしていたのだ。

「この近辺で”シエロ”がいるのかな?」
「私が知る限りでは・・・」

 ステファン大尉は北西方向を見た。

「あっちにグラダの女が1人住んでいるだけです。」

 テオは吹き出した。「グラダの女」とは、彼の大親友で愛しい女性、ケツァル少佐のことだ。そして彼女はステファン大尉の元上官で、彼の腹違いの姉だった。少佐は唯一人の純血種のグラダ族だが、ステファンはミックスだ。グラダの血を4分の3近く持っている筈だが、彼自身は「半分」と言う。母方の曽祖父であろう白人の血が彼の”ヴェルデ・シエロ”の能力の開発に障害となるので、彼はいつも謙遜していた。人から尋ねられない限り、彼の方からグラダ族を名乗ることはない。

「少佐がナワルを使って夜歩きする筈がないしな・・・」
「そんなことを彼女がしたら、エステベス大佐が見逃しません。」

 車が通りの向こうからやって来るのを見て、テオは用事を思い出した。

「実はロホからオフィスに来いと呼び出しがかかっているので、これから行くところなんだ。何か言付けはないか?」
「ノ」

と言ってから、大尉はニヤッと笑って言った。

「少佐に夜歩きしなかったか、確認だけして下さい。」


 

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