夜空に大きな月が浮かんでいた。満月にはまだ2日ほど足りなかったが、月明かりは外を歩くのに十分だ。ケツァル少佐は月明かりを必要としないが、アパートのバルコニーでビールを飲みながら外を眺めているうちに散歩をしたい衝動に駆られ、外に出た。私用外出だが、一応拳銃は携行していた。規則を守ることは部下を統率する者にとって重要だ。指揮官が規則を無視すると部下も無視する。
家並みの向こうは明るかった。繁華街は夜明けまで明るい。平日でも活動している区画があるのだ。セルバ共和国には夜目が効く国民が多いので、昼間働けない場所の工事を夜間にやってしまう業者が少なくない。当局はあまり良い顔をしないのだが、そう言う労働者の夜勤明けの食事や寛ぎの場が夜も賑わっているのだ。
少佐はアパートを出ると住宅街の道を目的もなく歩いて行った。坂道を上ったり下りたり、特に風景を楽しむこともなく、ただ月を追いかけて歩いている、そんな感じだった。時々民家の庭で犬が吠えた。人の気配で吠えただけだろう。少佐は気を完全に抑制していた。動物達に”ヴェルデ・シエロ”が歩いていると気取られる筈がなかった。
1本向こうの筋の犬達が盛んに吠え始めた。何か怪しい気配が通っているのだ。少佐は足を止めた。犬の騒ぎは西から東へ移動して来る。先に吠えた犬の感情が伝わって、まだ怪しい気配が到達していない地区の犬も吠え始めたので、少し収拾が付かなくなってきた。その怯えた様な鋭い声に、少佐は一瞬気を放った。
ーー落ち着け
犬達が静かになった。だが彼等は安心した訳ではない。犬達の緊張が伝わってきた。少佐が立っている通りの犬達も落ち着きを失っている気配だ。
少佐が放った気は、犬達を怯えさせたモノにも伝わった筈だ。家並みを間に置いて、何者かと少佐が互いの出方を伺う、そんな状態が数分間続いた。
ーーどうしました?
不意に少佐の脳にママコナが話しかけてきた。少佐が放った気をピラミッドの巫女が受信したのだ。少佐は簡単に答えた。
ーー犬が騒いだので鎮めただけです。
ーー満月が近いせいでしょう。
ママコナはそれっきり何も言ってこなかった。
怪しい気配の主はピラミッドには影響を及ぼしていない様だ。だが動かない。少佐が放った気を感じて警戒しているのだ。
少佐は時計を見た。散歩に出てから1時間経っていた。そろそろ帰ろう。彼女は向きを変え、やって来た道を逆に辿り始めた。当初はぐるりと町内を一周するつもりだったが、犬を騒がせた気配と出くわすのを避けたかった。相手が悪意ある者かただの無心の者なのか判断がつかない。彼女は無用な争いを好まなかった。
再び背後で犬の吠え声が始まった。怪しい気配は遠ざかって行く。誰かが犬に向かって「黙れ!」と怒鳴る声が聞こえた。
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