2021/09/19

第3部 夜の闇  6

  文化・教育省の終業時刻迄まだ2時間もあったので、テオは友人達を待つこともなく、大学へ行った。事務局へ行って学生が預けた鍵を受け取り、研究室へ行った。最初に冷蔵庫に牛の検体が収まっていることを確認してから、机の上のパソコンを立ち上げた。当日の作業報告を作成し、業務記録と共に生物学部主任教授のパソコンへ送信しておいた。同じ大学の施設へ出かけただけなので、出張費は出ないが、ガソリン代は出るだろう。自前の車を出した学生達の氏名も忘れずに記入しておいた。
 次にロホから預かったビニル袋を出し、中の動物の体毛と思われる物体を顕微鏡で眺めた。どう見てもイヌ科の動物の体毛にしか見えなかった。5本ばかりを別の袋に入れて、研究室から出て、野生生物の調査を主に行なっている准教授の部屋を訪ねた。相手は不在だったが助手が鑑定を引き受けてくれた。詳細な分類は必要ないから、何の動物かだけ調べて欲しいと言ったら、笑われた。

「遺伝子分析のエキスパートだから、アルスト先生の方が詳しいでしょ?」
「遺伝子分析は比較対象がないと、何なのか同定出来ないんだ。犬とか猫と言ってくれたら、それの基準表と比較出来る。」
「毛だけでは、犬と猫の違いははっきりしないのですけどね。」

 それでも助手は検体を預かってくれた。
 テオは自分の部屋に戻り、毛の1本を成分分析にかけた。毛だけではDNAが取れない。毛根の細胞が欲しかったが、それはなかった。アスルも謎の動物に噛まれた作業員の体に付着していた物を採取しただけだから、こちらから文句を言う訳にいかない。
 機械が分析結果を出すのを待っていたら、ドアをノックする音が聞こえた。彼は「開いてるよ」と答えた。先刻毛を預けた助手かと思ったら、入って来たのは軍人だった。

「相変わらず不用心な人ですね。」

とカルロ・ステファン大尉が言った。テオは振り返って笑った。

「ここに強盗が入ったなんて聞かないからね。」

 そしてカマをかけてみた。

「まさか、ジャガーの毛を持って来たんじゃないだろうな?」

 ステファン大尉が一瞬拗ねた表情を作って見せたので、図星だとわかった。

「流石ですね。」
「そうでもない。実はさっき文化保護担当部に呼ばれたのも、似たような用件だったんだ。」

 テオは分析器をペンで指した。

「アスルが動物の毛を送って来て、鑑定依頼して来たんだとさ。」
「アスルが?」

 ステファン大尉が興味を抱いて分析器の側へ立った。覗いても何も見えないのだが。テオは簡単に説明した。

「ミーヤ遺跡の発掘現場で、作業員が動物に噛まれたらしい。作業員達の間で、その噛んだ動物がチュパカブラじゃないかと噂が広まって、作業が滞っているので、普通の動物だと証明してくれと言う依頼だ。アスルがチュパカブラを信じている訳じゃない。」
「そうでしょうね。」

 大尉は勝手にその辺にあった椅子を引き寄せてテオの前に座った。

「警護隊に入隊すると民族の歴史を習いますが、そんな怪物の言い伝えなど教わりませんよ。」
「悪霊の話は教わるのかい?」
「大きな事件として残っているものは教わります。」

 それは興味深い。民族学のウリベ教授に聞かせたい。とテオは言って、少しだけ世間話のムードになったので、コーヒーを淹れた。大尉は急がないのか、コーヒーが出される迄大人しく座って世間話に付き合った。

「ギャラガ少尉は新しい部署に馴染んでいますか?」
「うん、心配無用だ。勉強熱心で、マハルダも良い教師だから、申請書のチェックは上手になった。専門用語も覚えたぞ。通信制は高校卒業の資格が要らないから、少佐が今度の学期からグラダ大学の通信制に入学させると言っている。」
「小学校も行っていない男がいきなり大学ですか? やるじゃないですか!」

 ステファン大尉も嬉しそうだ。この男は一応義務教育は受けたらしい。出席日数がギリギリだったと言っていたが。かっぱらいや掏摸の方が学業より忙しかったのだ。

「アンドレも他の連中同様、君が文化保護担当部に戻って来るのを待っている。一体、本部はいつまで君を捕まえておくつもりなんだ?」
「捕まっているつもりはありませんが、修行を終えたと承認してもらえる迄の辛抱です。」
「さっき一緒にいた隊員は少尉か?」
「スィ。遊撃班は手が空いている者から順番に任務を割り当てられるので、階級に関係なく組まされます。今日の相棒はデルガド少尉です。」
「彼は何処かで待っているのか?」
「車の中で寝ています。今夜、またジャガーが出没するかどうか、張り込むつもりなので。」

 テオは出来上がったコーヒーをカップに入れた。ステファンの好みを知っていたので、ミルクと砂糖も出した。ステファンはポケットからスカーフに包んだ物を出した。開くと黄色い毛の塊が入っていた。

「有刺鉄線に引っ掛けた様です。」

 テオは用心深くそれを空いたシャーレに入れた。

「確かに、ジャガーの毛に見えるな。」
「根元に少し血が付いているように見えます。」
「それは有り難い。」

 テオはじっと毛を見つめた。確かに血液の様な物が付着していた。シャーレに蓋をした。

「分析器が空き次第、これに取り掛かってみる。ところで、ちょっと不思議に思うんだが。」

と彼は言った。

「ここに毛が残っている。ジャガーが誰かのナワルだとして、その人物は人に戻った時、どこか怪我をしているのかな?」
「血が付いていますから、怪我をしていることは確かです。しかし、毛が抜けたぐらいでは人の体には影響ありません。」
「そうなのか・・・それじゃ、もし尻尾が何かでちょん切られたら、どうなるんだ? 人の体のどの部分が怪我をするんだ? 残った尻尾はそのまま尻尾として残るのか?」

 ステファン大尉は無言でテオを見つめた。テオも見つめ返した。
 やがて、ステファンが呟いた。

「想像を絶する痛さだと思いますが、怪我をするのは尻でしょうね。」
「誰も経験がないんだな?」
「聞いたこともありません。」
「それじゃ、残った尻尾の行く末は誰も知らないんだ・・・」
「知らないでしょう。」

 2人は溜め息をついた。



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