2021/10/14

第3部 隠された者  4

  テオの車でロレンシオ・サイスの家の近所まで行った。まだサイスの車は庭にあるのが門扉の隙間から見えたので前を通り過ぎ、デルガドが先日電話に出た場所へ行った。自動車修理工の工場前だ。工場は土曜日なので休業しており、その前に駐車しても文句を言われなさそうだ。それにテオの車にはロス・パハロス・ヴェルデスが2人いる。
 デルガド少尉が車外に出て、ぶらぶらと工場の周囲を歩いた。ピアニストではなく修理工に興味があるふりをして工場内を覗き込んだりしていたが、体の向きを変える時は必ずサイスの家の方を見た。シエスタの時間なので住民は家の中で昼寝か長い昼食を取っているらしく、通りに人影はなかった。
 やがてデルガドが足速に戻って来た。

「サイスが車に乗りました。」

 彼は素早く車内に入った。
 サイスの家の門扉は自動になっているのか、ちょっと金属音を立てながら開き、サイスのイタリア車が出てきた。テオはサイスの車が角を曲がる迄待ってからエンジンをかけ、低速で後を追いかけた。マセラティのグランカブリオだって? ピアニストってどんだけ儲かるんだ?
彼はちょっと心の中でやっかみながら尾行した。彼の中古のトヨタ・クラウンは音が静かだ。グランカブリオのエンジン音を聞きながら追いかけた。Tシャツ姿の助手席のステファンは窓を開けてのんびり腕を外に垂らしていた。尾行なんてしてません、ドライブ中です、って感じだ。
後部席のデルガドは横に置かれたテオのリュックがちょっと気になった。何だか知らないが心をくすぐる様な匂いが微かにするのだ。恐らく普通の”ティエラ”では嗅ぎ取れない程度の匂いだ。
 2台の車は住宅街から市街地に入った。すぐに車の交通量が増えたが、ステファンは高級車のエンジン音を聞き漏らさなかった。

「次の交差点を左へ・・・彼は真っ直ぐシティホールに向かっています。」
「それなら、彼が寄り道しない限りは見失うことはなさそうだな。1人で乗っているのか?」
「スィ。彼のマネージャーは恐らくシティホールで落ち合うのでしょう。」
「マネージャーはセルバ人か?」
「そこまでは・・・」

 ステファンが口籠もった。デルガドも何も言わない。未調査なのだ。テオは調査対象が増えたな、と呟いた。
 グラダ・シティのシティホールは市役所と道路を隔てた向かいに建てられており、古代の神殿をモチーフにした近代的なデザインの建物だった。若者向けの音楽のコンサートから先住民の古代舞踊のショーやオペラまで上演されるセルバ共和国自慢の公共施設でもあった。国立ではなく市立なのだが、その警備は陸軍が行っている。大勢の市民が集まる場所で万が一のことがあれば大変だと言う国防省と内務省の意見が一致した結果だ。大統領警護隊はそこの警備には関知していないので、警備関係者の事務所建物はスルーして一般の駐車場に入った。その日は特にホールでの催し物はない筈だったが駐車場には50台ばかり車が駐まっていた。

「コンサートの打ち合わせにこんなに人が来るのか?」

とテオが素朴に疑問を口に出すと、デルガドが笑った。

「見学者です。催し物がない時は無料で中を見学出来るのです。立ち入り出来る場所は制限されていますが、アーティストや俳優などの練習風景を生で見られるので、結構人気なんですよ。」

 彼は建物の裏手を指差した。

「サイスの車は向こうの関係者限定のスペースに入りました。マネージャーやスポンサーなどはあっちに駐車しています。」
「俺たちは無理か?」
「警備がいます。我々が入れないことはありませんが、言い訳が必要です。」

 大統領警護隊は他人に自分達を見えていないと思わせる能力を持っているが、無闇に使いたくないのだ。今はロレンシオ・サイスがこの日どんな行動を取るのか見るだけなのだから。
 テオ達は車外に出た。遊撃班は外出の際に変装用に私服を持ち出す。デルガドはちゃんとステファンと彼自身の服を官舎から持って来ていた。だからTシャツにジーンズ、拳銃ホルダーを装着してジャケットで隠していた。テオは丸腰だ。リュックを背負って2人の隊員についてホールに入った。
 エントランスは吹き抜けで広い。売店もあるし、チケット売り場もある。スマホ決済が出来る様だ。客席へは中央の階段を上がってから並んでいる7つの扉から入る。その階段がまるでパリのオペラ座の中央階段みたいに凝ったクラシックな装飾をしてあったので、近代的な外観とチグハグでテオは可笑しく思えた。古代神殿ともマッチしない。この建物を設計した人はどんな美意識を持っているのだ? と彼は疑った。
 軍人ではなくホール職員が見学順路を案内しており、テオとステファンはガイドに従って階段を上り、観客席に入った。デルガド少尉は先にお手洗いに行くと言って離れた。
 テオは扇型の客席を想像していたがかなり違っていた。舞台を円形に取り巻くような形に客席があった。少し歪な形のコロシアムだ、と言うのが彼の第一印象だった。ステージは上下に可動式になっているらしく、グランドピアノが一階の客席より高い位置にあった。音楽を聴かせるので、最前列の客がピアニストの姿を見られなくても構わないと言う考え方なのだろう。見学者コースは2階席から始まっており、そこからだとピアノがよく見えた。
 調律師がピアノを点検しているところで、それを撮影している見学者もいた。テオとステファンも最前列の手すりにもたれかかって見物した。

「ジャズは好きかい?」
「嫌いじゃありません。ただ聞くより踊る方が好みです。」
「本部でも踊るのか?」
「まさか・・・」

 ステファンが苦笑した。

「そんなことをしたら営倉行きです。」
「だけど、君達も踊るだろ、クラブとかで・・・」
「休暇で外出する時はね。」

 ステージにピアノ以外の楽器が運ばれて来た。ジャズだからバンド演奏もやるのだ。先住民のピアニストが現れた。ラフな服装だ。プロデューサーやバンドリーダーと打ち合わせを始めた。ピアノの前にすぐに座る訳ではなさそうだ。
 テオは後ろを振り返った。

「エミリオはまだトイレかい?」
「ノ・・・」

 ステファンが声を低くした。

「楽屋でしょう。」

 1人で”幻視”を使って他人に見えないと思わせて忍び込んだのだ。

「サイスは目の前にいるぜ?」
「デルガドはサイスの部屋に怪しい物がないか調べに行ったのです。」
「怪しい物?」
「サイスに無意識にナワルを使わせる要因になりそうな物です。」

  つまり、麻薬や違法薬物がないか調べに行ったのだ。

「貴方はさっき車の中でマネージャーの存在を我々に思い出させてくれました。サイスが何も持っていなくても、マネージャーが何か持っているかも知れません。」
「マネージャーは今ステージにいるのかな?」
「我々は彼のマネージャーの顔を知りません。盲点でした。」

 ステファンはまたテオに一本取られたと言う顔をした。いや、盲点があったことを教えてもらって感謝するべきだろう、と彼は己の心に言い聞かせた。

「君は、サイスが何か薬を使って、その作用で無意識に変身してしまった可能性を考えているんだね?」
「昨夜の女の言葉を考えると、そんな場合もあり得ると思ったのです。」
「ビアンカ・オルティスはサイスが変身した経緯を知っているんじゃないかな?」
「知っているでしょうね。だが彼女と彼の関係が見えてこない。アスクラカンから来た女とアスクラカンに行った記録がない男の接点がわかりません。」
「カルロ、この後で彼女に会いに行ってみないか?」

 ステファンが振り返って彼を見た。

「一緒に行ってくれるのですか?」
「勿論・・・って、1人で会いに行くのはマズイのか?」

 すると大尉が躊躇った。

「向こうは未婚の女性ですから・・・」
「はぁ?」
「ですから・・・」

 ステファンはちょっと顔を赤らめた。

「オルティスがただの女性だったら問題ありません。しかしデルガドと私は彼女が一族の女だと知ってしまった。未婚の男が部族の長老や彼女の親の許しを得ずに未婚の女に接近するのはマズイのです。」
「ただの事情聴取だろ?」
「女の方から来るのは問題ありませんが、男の方から近づくには制約があります。それが一族の掟なのです。」

 面倒臭い一族だなぁとテオはぼやいた。

「ケツァル少佐やマハルダには誰もが平気で近づいているじゃないか!」
「彼女達が何者か、皆知っています。それに仕事仲間ですから平気なのです。彼女達の身分を知らずに、ただの一族の女だと言う知識しかなければ、一族の男は声をかけません。彼女達の部族や家族に対して失礼になるからです。」
「君が問題にしているのはオルティスが一族の女だと言うことだな? でも昨晩は君から声をかけたんだろ?」

 ステファンは渋々認めた。

「周囲に誰もいませんでしたから。彼女は私が声をかけたので怒っていました。」

 テオは溜め息をついた。

「わかった。それじゃ、俺がグラダ大学の准教授として彼女に声をかけよう。」



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