2021/10/05

第3部 潜む者  6

  カルロ・ステファン大尉はテオドール・アルストの家を出ると、少し離れた場所に駐車しておいた大統領警護隊のジープに戻った。車に異常がないことを確認して乗り込み、静かに車を出した。ピアニストのロレンシオ・サイスの家の前を通り、坂道を下って次の角で西へ向かって曲がった。西サン・ペドロ通りへ走り、ビアンカ・オルティスが住んでいると思われる学生向け住宅の並びを抜け、市街地の大通りに出た。住宅地ではあまり歩行者を見かけなかったが、市街地はまだ人通りが多かった。
 大統領府に向かって走って行くと、歩道を走っている男が見えた。片方の肩に鞄を背負うようにして、大統領府の方向へ走って行く。足取りは決して重たくないが、軽快とも言い難い。ステファンは声を立てずに笑って、ジープを歩道に寄せた。速度を落として開放した窓から声をかけた。

「よう、少尉、乗って行くか?」

 赤毛のアンドレ・ギャラガ少尉が振り向いた。おうっと声を上げ、ギャラガが窓から鞄を投げ込み、走りながらドアに飛びついた。通行人達が驚いて振り返るのも気にせずに、彼は窓から車内に滑り込んで来た。
 ステファンは車のスピードを上げた。ギャラガが座席に座らぬうちに話しかけた。

「門限を忘れて仕事をしていたのか?」
「ノ、さっきオフィスに戻ったばかりです。」

 ギャラガは息を整えながら喋った。

「直帰すべきか迷いましたが、鞄を置いたままだったので、少佐にオフィス前で落としてもらいました。」
「少佐と一緒に出張したのか。」
「スィ。グラダ港のコンテナバースへ出張っていました。麻薬のガサ入れをした警察が盗掘品の密輸も発見したので、連絡して来たのです。明日、また警察へ行って美術品を調べないと・・・」

 すっかり文化保護担当部の隊員らしい口ぶりになっている後輩に、ステファン大尉はちょびっとジェラシーを覚えた。本来なら彼が港へ行って捜査すべき仕事だった筈だ。
 ギャラガが後部席をチラリと見た。

「大尉はお一人ですか?」
「今はな。相棒はまだ仕事中だ。」

 それ以上の説明はしなかった。
 文化保護担当部に転属命令が出た時、ギャラガはステファン大尉に挨拶しに来た。本来ならステファン大尉が戻るべき場所に己が配属される。なんだか申し訳ない気持ちになったのだ。しかし、大尉は彼が転属すると告げると、笑って言った。

「気を引き締めて働けよ。ケツァル少佐は仕事にはマジで厳しいからな。」

 転属した直後に、ギャラガは大尉も警備班から遊撃班へ転属になったと聞いた。本隊では最も厳しいエリート集団だ。司令部はステファン大尉を少佐か中佐に昇級させる迄手放しはしないだろう、とギャラガは予想した。
 大統領府が見えてきた。大統領警護隊はその敷地内に本部と訓練施設を置いている。通用門は大統領府とは別にあった。広い敷地の外周を半分ほど回ってから警護隊本部に入った。ステファン大尉はギャラガ少尉を先に落としてやり、官舎の門限に遅れないよう走らせた。彼自身は車を所定の場所に駐め、勤務終了のチェックをしてから大尉専用の部屋に戻った。2人部屋だが、同居人はいなかった。最初にその部屋に入った時、先住の大尉がいたのだが、外交官の試験に通って少佐になり、何処かの国の大使館付き武官として出向して行った。ステファンも警備班の少尉だった頃に、武官のファルコ少佐から引き抜かれかけたことがあった。彼の出世を妬んだ同僚の告げ口で不良少年時代の過去を暴かれ、エリート街道に乗ることを閉ざされたのだが、司令部は再び彼にもう一度チャンスを与えようとしていた。しかし、正直なところステファンは外交官になるより文化保護担当部でジャングルや砂漠を走り回っていたかった。何にも制約されずに自分を解放出来る空間に戻りたかった。
 彼は制服を脱いで、シャツ一枚でベッドに転がった。
 住宅街を徘徊したジャガーも、何かから解放されたかったのではないだろうか。もしかすると唯一度の変身だったかも知れない。世間が大騒ぎを始めたので、もうナワルを使わないかも知れない。
 彼は体を起こした。脱いだ制服を再び着ると、きちんと身だしなみを整えた。そしてテオドール・アルストからもらった血液検査結果の報告書を持って、部屋の外に出た。


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