2021/12/02

第4部 忘れられた男     2

  アメリカで住んでいた時代は、まるで富豪の息子かと思われるような至れり尽くせりの待遇で暮らしていたテオドール・アルストだったが、セルバ共和国に亡命してからは現地の住民の生活に自然に溶け込んでしまった。きっと彼を「創った」国立遺伝病理学研究所の科学者達が現在の彼を見たらびっくりするだろう。
 テオは太陽が昇る前に目が覚め、清潔とは言えないが掃除されているトイレで用を済ませ、前日に着ていた服を再び身につけた。それからグラダ大学事務局とゼミの学生代表にメールを送り、政府からの仕事の依頼を受けたので休講する、と連絡した。「政府」と言うのは大袈裟かも知れないが、この単語を入れておかないと、事務局は良い顔をしないのだ。テオは突然の休講が多い准教授なので、次期の雇用に影響が出てくる。食べるための教職だが、テオは学生達と一緒に研究するのが楽しくなっていた。単独で研究室に篭っているより、若者達と共にいろいろな説を論じ合いながら実験する方が楽しい。大学の方も内務省の要請で引き受けた科学者が政府に頼られている優秀な人間だと思えば、度々の休業にも目を瞑ろう、となる。
 身支度を終える頃にロペス少佐が目を覚ました。軍人なのに、テオが起きて動き回っていることに気が付かなかったのだ。すっかり「都会人」だな、とテオは心の中で思った。軍人らしい鋭い面も残っているが、オフィスで仕事をする方がこの男には合っているのだろう。毎朝定時に家を出て、夜定時に帰宅する生活が日常の筈だ。恐らくアリアナ・オズボーンと上手くやっていけるだろう。実を言うと、昨夜寝る前に彼とアリアナの将来についてじっくり語り合ってみたいとテオは思っていた。しかしベッドに入るとロペス少佐はすぐに寝てしまったのだ。
 朝の挨拶をして、ロペス少佐は部屋の外のバスルームへ行った。他の部屋の客に待たされたのか、かなり時間が経ってから戻ってきた。彼も着替えを済ませ、食堂へ降りた。コーヒーと菓子パンだけの朝食だったが、ないよりましだ。ケツァル少佐はとっくの昔に朝食を済ませて海岸のジョギングから戻って来ると、男達を眺めた。

「9時迄まだ時間があります。散歩しませんか?」

 ロペスがテオを見たので、テオは頷いた。他に時間を潰す方法を思いつかなかった。
 前夜は暗かったので宿周辺の風景が見えなかったが、朝日の中で見る漁村は美しかった。ハイウェイがすぐ近くを通っているが、地元民に観光で生業を立てようと言う意思がないらしく、道路と海岸の間にまばらに民家が建っているだけだ。砂浜より高い位置に外付けのエンジンが装着されているだけの簡単な漁船が並んでいた。ハリケーンで流されないように上げてあるのだ。砂浜は思ったより幅があり、整備すれば観光地としてやっていけそうだが、漁民は現状で満足しているのだろう。沖には村の名前になっている白い岩が波間に顔を出していた。陸から見ると象の背中に見えたが、この地に象はいないので、岩の名前に使われなかったのだ。
 ハイウェイから浜へ向かう脇道が何本かあったが、海水浴客用ではなく、地元民の生活道路だ。中には網が干されていて通せんぼされている道もあった。

「砂の上に足跡を残さないように歩く訓練を思い出す。」

とロペス少佐が呟いた。彼はスーツの上着を片腕にかけていた。テオは後ろを振り返った。砂の上に彼のスニーカーの跡が残っていたが、ロペス少佐の革靴とケツァル少佐の軍靴の跡はなかった。

「体重を減らすんですか?」

と揶揄ってみると、ロペスがちょっと笑った。

「そんな方法があれば本か動画配信で世の女性達からお金を集めますよ。」
「足の運び方です。」

とケツァル少佐が言った。

「今のようにゆっくり歩く場合のみ有効な歩き方です。走れば跡は残ります。」
「静かに暮らしていれば、誰も我々に注意を向けないのと同じです。」

とロペス少佐が言った。ケツァル少佐が彼に尋ねた。

「仕事は忙しいのですか?」
「適度に。」

とロペス少佐は答えた。

「近隣の国でクーデターやら大災害が起きて難民が押し寄せて来ない限りは暇だね。」

 


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