2021/12/09

第4部 忘れられた男     12

  エルネスト・ゲイルについて知りたい情報を引き出すと、憲兵隊はテオを大学へ送り届けてくれた。必要ならまた呼びます、と言う注釈付きで。
 テオは研究室に入り、次週から正式に始まる新学期の準備に取り掛かった。前期から続けて受講してくれる学生の授業と、新規に履修してくれる学生の為の入門講座の2つの教室を受け持つことになる。忙しくなるが、給料もその分多少アップするので文句を言わないことにした。シエスタ返上で働き、何とか授業方針に目処がたった。予算も降ろしてもらえる内容だ、と自分で思う。
 ホッと一息ついて、ふとエルネスト・ゲイルの現在に心が向いた。あの男は実際のところ、今は何をしているのだろう。何処かに潜入しようとした印象だが、彼にスパイ行為が務まるのか? バス事故に遭う前のテオは我儘で身勝手で他人への思い遣りがない人間だと評価されていた。しかし、彼自身の記憶の中のエルネストは、もっと酷かったと思う。エルネストは我儘と言うより、自分のことしか関心がなく、自分の殻に引きこもっていた。盗撮や盗聴が好きなのも、1人で楽しめるからだ。ネットに公開して視聴者を獲得し、標的となった他人を苦しめようとか、そんな目的ではなく、彼1人楽しめれば十分満足、と言う人間だ。諜報部から教育を受けてスパイ活動を行うなど想像出来ない。しかし、亡命はもっと想像出来ない。生まれ育った研究所が失われてしまったとしても、あの男は現代アメリカ文明の中でしか生きられない。ネットと宅配ミールのない世界で生きていけるだろうか。
 省庁が業務を終わる時間が近づいたので、彼はケツァル少佐にメールを入れた。

ーー夕食を一緒にどうだい?

 珍しいことに、速攻で返信が来た。

ーーO K

 思わずメアドを確認してしまった程だ。
 研究室を出て、歩いて文化・教育省へ行った。午後6時になって、何時ものごとく、職員達が一斉に雑居ビルから吐き出されて来た。
 ケツァル少佐は普段最後の方で出て来るのだが、その日は珍しく早いグループに混ざっていた。角に立っているテオを見つけると足速に歩み寄った。そして彼の顔を見るなり、言った。

「お腹ぺこぺこです。」

 テオは吹き出した。彼女は病院からオフィスに戻ってから、一心不乱に溜まった書類と格闘していたのだ。昼食も取らずに。
 部下を同伴するかしないか、それは夜の予定で決める文化保護担当部指揮官だ。少佐はテオをいつものバルに連れて行った。ビールと小皿料理で夕刻の一時を2人でのんびりと過ごした。テオは簡単に憲兵隊との遣り取りやエルネスト・ゲイルの現状を説明した。そして少佐はいつもの様に食べることに集中しているふりをして、彼の話の一言一句をしっかり聞いていた。

「要するに、現在のところエルネストが何処へ何をしに行こうとしていたのかは、まだ不明なんだ。あまり素直な男じゃないから、憲兵隊の尋問に正直に答えるかどうかも疑問だけどね。ただ、俺はあいつがこの国で問題行動を起こして、眠っている人々を起こしはしないかと、それだけが心配だ。」

 眠っている人々、と言うのは”砂の民”のことだ。テオは初めてこのロマンティックな隠語を思いついて使ってみたのだ。少佐はあっさり理解した。

「私はあの男のことを誰にも話すつもりはありませんが、シーロは私から事情を説明した時に、ゲイルが危険な存在であると思った筈です。」
「わかる。」

とテオは頷いた。

「ロペス少佐は、一族と共に婚約者も守りたい筈だね。」
「スィ。彼は私に感想を伝えませんでしたが、何か手を打つかも知れません。」

 事務仕事を長年してきたと言っても、シーロ・ロペスは大統領警護隊の少佐だ。移民や亡命者を相手に様々な対策も練ってきただろう。外務省の顔の1人として他の省庁にも出入りしているのだから、顔も広い筈だ。

 エルネスト・ゲイルは生きてセルバ共和国から出ることが出来ないかも知れない

 テオはふとそんな予感がした。

「ところで少佐、彼がセルバに流れ着いたことを、カルロに教えるつもりはあるかい?」

 ケツァル少佐が意外そうな顔をした。

「その必要があるのですか?」
「もし、エルネストが街中に出て、そこにカルロが通りかかったら・・・」

 よく考えると、馬鹿な心配だ。ここはカルロ・ステファンのホームベースで、ゲイルは紛れ込んでしまった異分子だ。ゲイルがどんなに騒ごうが、周囲は”ヴェルデ・シエロ”を信仰するセルバ人ばかりだ。そしてセルバ人にとって、カルロ・ステファンは、ただのメスティーソの大統領警護隊隊員だ。超能力を持っていようが、ジャガーに変身しようが、ゲイルがどんなに喚き立ててもセルバ人は無視する。ステファンも無視するだろう。
 テオは手を振った。

「いやいや、忘れてくれ、俺の余計な心配だった。」
「そうでしょう。」

 と少佐はビールをごくりと飲んだ。そして囁いた。

「カルロとは連絡を取り合っていませんから。」


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