2022/01/12

第4部 花の風     26

  室内では分析器が仕事をする微かなブーンと言う機械音が響いていた。廊下を足音を忍ばせてやって来た人物はその音に気づいたのだろうか、一旦前を通り過ぎて、直ぐ戻って来た。アスルはドアの横に立っていた。多分、正面に立っても普通の人間の目に見えない”幻視”を使うだろうが、用心に用心を重ねている。
 事務局から盗んで来たのか、鍵を使ってドアを開け、侵入者が室内に入ってきた。アスルは動かない。相手の出方を伺っている。テオは男だと判断した。
 男は携帯ではなく小型のライトを出して棚を物色し始めた。何か目的を持って探している。テオは男が横方向に移動する度に己もそっと机を回る様に移動した。男がうっかりゴミ箱を蹴飛ばし、床にプラスティックの容器が転がる音がした。男は慌ててライトを消し、暫く動きを止めた。それから誰も聞いていないと判断し、再び動き出した。散らばったゴミを片付けるつもりはなさそうだ。不意に男がライトの向きを変え、テオは急いで身を低くした。男は分析器を眺め、それから舌打ちした。何をする機械なのかわかっているが、中身を確認出来ないのだ。
 再び男は棚を見ていき、やがて冷蔵庫と金庫を発見した。金庫の中は学生達の名簿と成績表、試験問題の資料が入っている。普通の泥棒が盗んでも意味がない紙切ればかりだ。男は金庫を後回しにして冷蔵庫を開けた。冷蔵庫も夜間は鍵を掛けるのだが、先刻テオが開けたまま、無施錠のままになっていた。テオが人間のサンプルを回収した後は、牛と豚のサンプルしか残っていない。ラベルには採取した農場の名前と番号が記してあるだけだ。男はそれを眺め、背負っていた小さなリュックの中にそれを入れ始めた。
 アスルが男のそばにそーっと忍び寄った。気配に気がついて男が振り返ったが、何も見えなかった。ただ、後ろの壁にアスルの影が映った。男は咄嗟に横を見た。アスルが別の場所に立っていて、影が映ったと思ったのだ。アスルが握った拳銃のグリップで男の側頭部を殴った。
 男が倒れたので、テオは机の影から出た。アスルが素早く男の腕を背中に回し、革紐を名人技で手首に巻き付けて縛り上げた。大統領警護隊は手錠を使用するが、この場面でアスルは持っていなかったのだ。しかし”ヴェルデ・シエロ”を拘束するのに有効な革紐は常備していた。それから男の服を探り、拳銃と折り畳みナイフを回収した。
 テオは壁の照明のスイッチを入れた。そして男の顔を見てアスルに言った。

「ロジャーだ。」

 アスルが冷蔵庫から氷を出して、男の顳顬に押し付けた。男が目を開けた。アスルが英語で話しかけた。

「ここで何をしていた?」

 ロジャー・ウィッシャーは彼を見上げ、それからテオに気がついた。またアスルを見て、もう一度テオを見た。

「ドクトル・アルスト、話を聞いてくれ。」

 彼が体を動かしたので、アスルが「ノ!」と言った。

「そのままの姿勢で話せ。」

 テオはロジャーにアドバイスした。

「逆らうな。俺の友人は白人嫌いで気が短い。」
「大統領警護隊?」
「答える必要はない。」

 アスルは1メートル以上ロジャー・ウィッシャーから距離を取っていた。それが嫌いな人間に対する彼の許容範囲の限界だ。昔はテオに対してもこうだったのだ。
 ロジャー・ウィッシャーはうつ伏せの姿勢で仕方なく話を始めた。

「憲兵隊が父は盗掘目的で遺跡に潜り込んで事故死したと言った。僕は恥ずかしかった。確かに父は黄金郷を探していたから、その可能性もあると思った。出来ればこの国に父の痕跡を残したくなかった。貴方はミイラの組織サンプルを採ったと思ったので、回収しようと思ったんだ。」
「それなら、電話でも構わないから、そう言ってくれれば、俺は貴方にサンプルを返した。無理に分析する必要はないから。貴方が時計であのミイラがアンドリュー・ウィッシャーだと確認しただろう。貴方が本当のロジャー・ ウィッシャーなのかどうかは、わからないが。」

 ロジャーが沈黙した。するとアスルが彼の顔のそばに行き、屈み込んだ。相手の髪の毛をいきなり掴み、顔を上げさせた。目と目を合わせた時、彼の目が金色に光った。
 アスルが言った。

「氏名、所属、階級、任務を言え。」

 ウィッシャーが唇を震わせた。何かと戦っているかの様な苦痛の表情を浮かべ、やがて絞り出すような声で喋り始めた。

「私はロジャー・ウィンダム、フォース・リコーン・中米戦略部隊所属、大尉、国立遺伝病理学研究所から脱走したシオドア・ハーストが現在研究しているものが何なのかを調査し報告する任務を帯びている。」

 テオは腹が立った。やっぱり北の国は彼を諦めていない。と言うか、セルバ共和国がどんな国なのか探りたいのだ。何故テオが亡命したのか、何故堅固な警備体制を敷いていた研究所が滅茶苦茶に荒らされたのか、何故当時研究所にいた人々の多くが記憶を失っているのか。
 アスルが尋ねた。

「今、何を知っている?」
「何も・・・」

 ロジャー・ウィンダムが答えた。

「奴らの守りは鉄壁だ。ハーストは私を警戒している。彼の研究サンプルを手に入れたら、直ぐに出国しなければ・・・」

 アスルが彼の髪の毛を離した。ロジャー・ウィンダムはばたりと床に顔を落とした。気絶していた。アスルはテオを見た。

「こいつの名前がわからなかったので、心を盗めなかった。”操心”で質問に答えさせただけだ。」
「十分だよ、アスル。グラシャス。しかし、こいつをどうしよう? 下手に始末したら、北はまた誰かを送り込んで来るぞ。」
「今の尋問は記憶に残らない。」

 アスルは冷蔵庫から豚のサンプルを出した。ウィンダムの手首を縛っている革紐を解き、その手の中に豚のサンプルを握らせた。
 ウィンダムのリュックサック、携帯電話と財布を奪い、立ち上がるとテオを見た。

「帰ろう。こいつはこのままにしておく。多分、強盗に襲われたと思うだろう。」



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