2022/01/19

第5部 西の海     3

  翌朝、文化・教育省の4階オフィスで大統領警護隊文化保護担当部の面々はいつもの業務を行なっていた。オクタカス監視業務中のマハルダ・デネロス少尉はフランス発掘隊の監視中間報告書をケツァル少佐に前日に提出していたが、彼女が伴って来たフランス人の考古学者は文化財・遺跡担当課に提出する発掘期間延長申請書を書くために、4階の待合スペースの机に陣取ってせっせとラップトップのキーボードを叩いていた。デネロスは彼と共にオクタカスに戻るので、ただ待つだけなのだが、時間が勿体ないと思ったのでアンドレ・ギャラガ少尉のグラダ大学通信講座のレポートの校正をしていた。ギャラガの正規担当教授であるファルゴ・デ・ムリリョ博士は滅多に大学に顔を出さないくせに学生の論文の誤字脱字に煩い。だからデネロスは後輩の手伝いをしていた。
 アスルことキナ・クワコ中尉はミーヤ遺跡以外にもいくつかグラダ・シティ近郊の小規模遺跡を担当しており、その日も3か所掛け持ちで走り回るので朝一番に出かけて不在だった。厳しい先輩がいないのでアンドレ・ギャラガは息抜き出来ると思っていたが、そんな時に限って郵送されて来る申請書が多いのだ。彼は封を開けては中の書類を出して眺め、審査順位を決めて「未決箱」に入れていった。
 ケツァル少佐が文教大臣の部屋に出かけているので、副官のロホことアルフォンソ・マルティネス大尉は最終審査書類を読んで署名する指揮官代行を行なっていた。予算案の書類は既に仕上げて少佐の机の上に積み重ねてあった。指揮官代行はそれに署名するのだ。自分で立てた予算に自分で合否を決める。矛盾だ、と思いつつ彼は仕事をしていた。
 一瞬巨大な気が感じられた。ロホは書類から顔を上げた。部下達は気がつかないのか、それぞれの仕事に専念している。他の職員達も当然ながら何も気がついていない。ロホは微かに緊張した。大きな力なのに、彼にだけ感じられる、そんな気を発することが出来るのは力が強い4部族の”ヴェルデ・シエロ”しかいない。
 フロアの端の階段の降り口にグラダ大学考古学部のフィデル・ケサダ教授が姿を現した時、ロホは意外に思った。ケサダ教授は確かに優秀な能力者だ。しかしマスケゴ族だ。マスケゴ族に、ブーカ族のロホを緊張させる様な力を出せるとは思えなかった。
 文化財・遺跡担当課の職員達は馴染み深い教授の訪問を笑顔で迎えた。文化財保護にいつも有力な助言を与えてくれる先生だから、いつでも歓迎される。
 ケサダ教授は微笑で職員達の笑顔の歓迎に応え、それから文化保護担当部のカウンター前へ来た。アンドレ・ギャラガの正面に立ったので、ギャラガが「ブエノス・ディアス」と挨拶した。教授が頷いた。

「ブエノス・ディアス、ギャラガ少尉。遺跡立ち入り許可申請に来ました。用紙をダウンロードしようとしたが、プリンターが故障してしまったので、ここでもらえますか。」

 ギャラガは慌てて傍のキャビネットに手を伸ばし、引き出しから用紙を取り出した。

「遺跡は何か所ですか?」
「1か所。申請者は1名。」

 ギャラガは用紙を1枚手渡した。教授はグラシャスと言って、ライティングデスクへ向かった。途中で足を止め、上着のポケットからハンカチを取り出し、顔に当てた。クシャミをハンカチで抑えたのだが、その瞬間ロホはまたあの物凄い気を感じた。しかしギャラガもデネロスも感じないらしく、平然と業務を続けていた。一般職員も同様だ。ロホは教授を見た。彼の恩師だが、通信制だったし、卒業後は大学に足を向けることが滅多になかったので、彼自身は恩師とあまり繋がりが深くない。ついでに言えば、マスケゴ族は人口がブーカ族に比べて極端に少ないので、ロホは「マスケゴ族ってこんなに力が強かったっけ?」と思った。
 ケサダ教授はデスクの前でもう一回クシャミをした。そして隣のデスクにいるフランス人に「失礼」と謝った。
 フランス人の書類は枚数が多く、英語で書く外国人用のものだった。スペイン語で書く国内用の申請書を慣れた手順で素早く書き上げたケサダ教授は、隣のデスクを覗いた。そしてフランス人がうっかり飛ばしてしまった空欄を見つけ、そっとペンで差した。フランス人はメルシーと呟き、そこに書き込んでから、やっと相手がセルバ共和国の考古学界では有名な教授だと気がついた。短い挨拶が交わされ、それから教授はカウンターに戻って申請書をギャラガの前に置いた。 ギャラガが手に取っていた郵送されて来た申請書を傍に置いて、教授の申請書を手にした。

「オルガ・グランデ聖マルコ遺跡に教授お一人で行かれるのですか?」
「スィ。ただ見るだけです。掘ることはしません。」

 ここでは考古学の権威も一人の申請者だ。ケサダ教授は謙虚に振る舞った。これもこの人の好感度が高い理由の一つだ。

「遺跡認定の視察は助手が行ったので、私も一度実際に見学しようと思っています。」

 そう言ってから、彼はまたクシャミをした。新たな衝撃波を感じて、思わずロホが声をかけた。

「大丈夫ですか?」

 教授が苦笑した。

「失礼。今朝の客が頭から被ったみたいに強烈な香水の匂いを放っていて、学生達も私も鼻の調子がおかしくなったのです。」
「何の香水です?」

 デネロス少尉が好奇心で尋ねたが、教授は答えを知らなかった。


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第11部  紅い水晶     24

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