2022/01/10

第4部 花の風     21

  シエスタの時間だ。テオは医学部へ歩いて行った。グラダ大学医学部は人文学舎や自然科学舎からちょっと距離がある。病院が併設されているので駐車場も別だし、職員寮も立派なものが建てられている。アリアナ・オズボーンは結婚する直前迄そこに住んでいた。今はロペス少佐と夫の父親と共に郊外の大きな家に住んで運転手付きの車で通勤だ。テオはアリアナではなく解剖学の教授を訪ねるつもりだった。事務所で面会を申し込んで、断られたら帰ろうと言う軽い気持ちだった。ミイラが現在何処に保管されているのか訊くだけでも良かった。
 病院前は広い芝生の庭になっていて、車椅子に乗った患者やパジャマ姿の患者がベンチに座っているのが見えた。
 ベンチに座った先住民の高齢女性の前を通り過ぎようとした時、女性が囁いた。

「テオドール・アルスト・・・」

 テオはびっくりして足を止めた。振り返ると、その女性はパジャマではなく、Tシャツに巻きスカートを身につけた、年配のセルバ女性に多い服装で、白い髪を三つ編みにして顔の両側に垂らしていた。皺だらけの顔を彼に向けて微笑んだ。テオの名前を呼んだものの、彼女はその後先住民の言語でブツブツ呟き、彼は理解出来なかった。テオは彼女の前に戻り、身を屈めて声を掛けた。

「ブエノス・タルデス。」

 先住民の言語を習いたいのだが、どう言う訳か大統領警護隊の友人達は教えてくれない。”ティエラ”の先住民の言語も習おうとしてみたが、発音が難しい音があって、なかなか習得出来ないでいた。だからスペイン語でその高齢女性に話しかけた。

「俺のことをご存知ですか?」

 女性はまた微笑した。その時、別の女性の声が聞こえた。

「義母は子供に還っているのです。出身部族の言葉しか話しません。」

 テオは後ろを振り返り、40代と思われる先住民の女性を見つけた。純血種だが、”ティエラ”なのか違うのか、わからなかった。テオは立ち上がり、ブエノス・タルデスと彼女に挨拶した。彼が胸から下げている大学職員のI Dカードを見て、女性がニッコリした。

「ドクトル・アルスト、お初にお目にかかります。」
「俺をご存知ですか?」
「スィ。父や夫から貴方のことを伺っています。」

 女性は優しい笑顔を見せたが、その目は知的で、鋭い光を放っていた。テオはドキリとした。”ヴェルデ・シエロ”だ。彼が彼女の正体に気づいたことを、女性も察した。だから彼女は名乗った。

「貴方は一族ではないので、他人を介さずに自己紹介致します。コディア・シメネスと申します。」
「セニョーラ・シメネス・・・失礼ですが、お父様やご主人は俺のことを・・・」
「父も夫もグラダ大学の考古学部で教授をしています。」

 テオは数秒後に、彼女が誰のことを言っているのか悟り、心の底から驚いた。コディア・シメネスはファルゴ・デ・ムリリョ博士の娘だ。そして夫と言うのは、フィデル・ケサダ教授だ。すると、目の前に座っている高齢女性は・・・。彼は低い声で囁いた。

「この方は、マレシュ・ケツァル、いや、マルシオ・ケサダさん?」

 コディアが、「スィ」と頷いた。

「5年前から夢の中に住んでいます。過ぎ去りし日を見て、生きているのです。」
「さっき、俺の名を呼んだんですよ。」
「恐らく夫の記憶を読んだのでしょう。」

 コディアは夫の母親を月に1度定期健診で通院させているのだと言った。薬局で薬を受け取る間、庭で義母を待たせていたのだ。「オルガ・グランデの戦い」を目撃したイェンテ・グラダ村の最後の生き残りである女性は、人生の辛かった記憶を仕舞い込んで、楽しかったことだけを思い出しながら余生を送っているのだろう。
 テオはコディアの許可をもらってマルシオ・ケサダの手を握った。年老いたグラダの血を引く女性はニッコリ笑って彼の目を見た。そして何かを囁いた。コディアが通訳してくれた。

「義母は言いました。エウリオの娘は元気ですか、と。」
「スィ。」

 テオはマルシオの目を見つめて大きく頷いた。

「カタリナ・ステファンは元気です。」

 マルシオがまた何か言った。コディアが通訳した。

「赤ちゃんによろしく。」

 多分、マルシオの中の時は、カルロとグラシエラが幼い時で止まっているのだろう。カタリナが子供を産んだ時、彼女自身は我が子フィデルを守る為に手放していたのだ。今、息子の家で息子の妻に世話をされていることを理解しているだろうか。
 テオはマルシオをハグしたい衝動に駆られたが自重した。”ヴェルデ・シエロ”は異人種とハグする習慣を持たない。それにコディア・シメネスの父親は純血至上主義者だ。もしかすると隠して養っているマルシオ・ケサダの存在をテオが知ったことを知ると、機嫌を損なうかも知れない。
 テオはマルシオ・ケサダから離れた。

「この人の存在は一族には秘密でしたよね?」

と確認すると、コディアは頷いた。

「貴方は信用出来ると夫が言っておりますので、明かしました。」
「グラシャス。」

 テオは心から礼を言った。

「俺は今日のこの出来事を忘れます。」

 するとコディアは微笑んで言った。

「シュカワラスキ・マナの子供達には打ち明けても大丈夫だと思いますよ。」


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