2022/01/06

第4部 花の風     8

  翌日、テオが大学で初級生対象の遺伝子組み替えに関する講義をしていると、教室の最後列の机に遅れて入って来て着席した人がいた。学生かと思ったらそうではなかった。ロジャー・ウィッシャーだった。彼はテオと目が合うと、微笑して片手を顔の横の高さに上げて挨拶代わりにした。テオは軽く頷いて見せた。何となく心穏やかでなかったが、そのまま講義を続けた。彼の講義が終わると質問タイムだ。開講して1ヶ月経つと質問をする顔ぶれが決まってきた。将来の野外授業に参加するであろう学生達だ。テオは質問しない学生達にもわかりやすく答えを説明していったが、一体何パーセントがついて来るだろう。
 質問が出尽くし、彼が次回の講義までの課題を出すと、学生達はノートに書き留めたり、タブレットにメモしたりして、やがて騒々しく教室から出て行った。
 テオが黒板の文字を消していると、ウィッシャーが近づいて来た。「ハロー」の後、彼は言った。

「スニーカーのセイルスに来たんです。アメリカ人の准教授がいると聞いたので、覗いてみたら貴方だったので、驚きました。」
「遺伝子の組み替えにスニーカーは必要ありませんよ。」

 テオはわざとスペイン語で返した。検索した情報が正しければ、ウィッシャーは中南米をセイルスで渡り歩いて来た。スペイン語やポルトガル語を理解出来る筈だ。
 ウィッシャーが苦笑した。

「僕がスペイン語を話せるとご存知でしたか。」
「仕事で方々を歩いて来られたでしょう。」

 テオは黒板消しをクリーナーで綺麗にした。

「ここへ来られた本当の目的は何です?」
「本当の目的?」
「偶然この教室に来られたとは信じ難い。」

 彼はやっとウィッシャーの顔に真っ直ぐ向き直った。

「それとも、俺が何者か知ってて公園で声をかけて来られたのかな?」

 ウィッシャーが首をゆっくりと振った。彼は言語を英語に戻した。

「成る程、国立遺伝病理学研究所で一番の頭脳を持って生まれた人だと聞いていたが、流石に侮り難い。」
「C I Aですか?」

 テオがズバリと訊いた。ウィッシャーは再び首を振った。

「元です。ニカラグアで仕事をして、その後で辞めました。信じていただけないでしょうがね。」
「確かに、知り合って間もない貴方を信じる謂れはありませんが、差し支えなければ、C I Aを辞めた理由をお聞かせ願えませんか?」

 テオは相手の表情を窺った。嘘をついたら見破ってやる、そんな気持ちだった。ウィッシャーはそばの机の上に座った。

「僕がC I Aに協力した本来の目的を果たすためです。」
「貴方の目的?」
「そうです。僕は父親を探しているんです。僕が14歳の時に中央アメリカで消息を絶った父親をね。」

 ウィッシャーは教室の後方を振り返って誰もいないことを確認した。

「ここで話していても構わないですか? 次の授業とか・・・」
「この教室は午後の授業迄空いています。」

 だからと言って長話をするつもりはないテオは、チラリと天井に近い壁の時計を見た。

「お父さんが行方不明なのですか?」
「ええ、もう20年近くなるので、生きているとは思えませんがね。父はゴムの貿易商でした。中央アメリカの農園を新規開拓に出かけて、いつも留守ばかりしていました。ある時、手紙が母の所へ送られて来たんです。消印はガテマラでした。手紙には奇妙なことが書かれていて、母は笑っていました。しかし、その手紙が父からの最後の便りでした。父の消息はぷっつり途絶えてしまい、母は何度か国務省に父を探して欲しいと働きかけましたが、父の手がかりはガテマラで途絶えていると言う答えしかありませんでした。それで僕は学校を出てから今の会社に就職して、中南米をビジネスで歩き回りながら父の手がかりを探しているのです。C I Aに協力することになったのは、僕が色々な国に出入りしてそこそこ現地の内情に知識があったからです。」

 テオは黙って聞いていた。学校を出て就職した? では海兵隊は何時入隊したのだ?



0 件のコメント:

第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...