2022/03/15

第6部 訪問者    5

  Ambrosia artemisiifolia と書かれたラベルをフィデル・ケサダ教授が険しい目付きで見つめているので、テオは苦笑した。

「焼畑農耕民がジャガーの襲撃を避ける為の苦肉の策として、北米のブタクサを移植した様です。毒ではありませんが、花粉が飛散するシーズンになるとアメリカでもアレルギー症状で悩む人口が増えます。」
「するとヴェルデ・シエロでなくてもクシャミが出るのですね?」
「スィ。北米では珍しくない季節的な病気です。香水の成分になるような香りはありませんが、薬効はあるみたいです。」

 小瓶の底に溜まると言うより付着していると表現した方が良い微量な物質を嫌らしそうに見ながら、ケサダ教授は小瓶をカフェのテーブルの上に置いた。

「どんなルートでその小間物屋の先祖が手に入れたのか知りませんが、私は出土物の中にその植物の種が入っていないことを願います。」
「交易で齎されたと言うより、何かの荷物に種が付着して運ばれて来たのでしょう。」

 テオは小瓶をポケットに仕舞った。まだ研究室に香水が残っているが、処分を決めかねていた。量が少ない割に高かったので、捨てる決心がついていなかった。

「兎に角、人体に毒となる物でないことは確かです。」

と彼が締めくくった時、ケサダ教授を呼ぶ声が近づいて来た。テオとケサダ教授が同時にその方向を見ると、ンゲマ准教授がやって来るのが見えた。年齢は教授の方が5歳ほど上だと聞いているが、ンゲマ准教授の方が年嵩に見えた。体型と顔つきが実年齢より老けて見える原因だろうとテオは思った。
 ンゲマ准教授はテーブルのそばに来ると、テオに挨拶をしてから、恩師に向き直った。

「サン・レオカディオ大学のモンタルボが早速船を出したそうです。なんでも、雨季明けから調査に入る範囲を決めておく為だとかで、遺跡には触らずに水中から建造物の撮影をすると言っているそうです。」
「それで君は何を慌てているのだ?」

 水中遺跡に興味がない教授が落ち着いた声で尋ねると、ンゲマ准教授は焦ったそうに言った。

「かなりの人数の撮影隊を引き連れているそうです。映画を撮るとかなんとか・・・」
「好きにさせておけば良い。」
「もしあの海中遺跡が本当にカラコルだったら、私立大学に調査されるなんて、悔しいじゃないですか!」

 テオとケサダ教授はンゲマ准教授の汗ばんだ顔を見上げた。思わずテオは声をかけた。

「貴方はカラコルを見つけたかったんですか?」

 ンゲマ准教授はドキッとした。ちょっと退いたが、それが彼の本音を代弁していた。ケサダ教授が弟子の気持ちを察した。

「未発見の伝説の街を見つけるのは、考古学者の夢ですよ、ドクトル・アルスト。ハイメは伝承を頼りにジャングルを歩き回るが、まだ大きな発見をしていない。しかし、海は専門外なのだから、傍観者に徹した方が良いな。」

 宥めてやんわり叱っている。ハイメ・ンゲマに自分が追い求める物を最後まで諦めるなと注意したのだ。ンゲマ准教授はメディアが大きく取り上げる私立大学の活躍が悔しいのだろう。テオは彼の気持ちを切り替えさせようと質問した。

「貴方は何を探していらっしゃるのです?」

 ンゲマ准教授が溜め息をついてから答えた。

「サラの完璧な遺構です。」

 サラとは、先住民が裁判に使用した洞窟だ。天然もしくは人口的な洞窟をほぼ完全な円形に整え、天井中央に穴を開ける。罪人をその穴の下に立たせ、上から石を落とす。罪人が無傷なら無罪、死んだり怪我をすれば有罪とした、昔の裁判方法だ。但し、これは石を罪人に直撃させるのではなく、罪人は天井の穴から少しだけ離れた場所に立たされる。石が落下した衝撃で飛散する石の破片での傷を見て、判決を下すので、「風の刃の審判」と呼ばれる古代セルバ独特の裁判方法だ。尤もこれはヴェルデ・ティエラの裁判で、ヴェルデ・シエロのやり方ではない。サラと呼ばれるその円形洞窟は裁判のために天井に穴を穿つ。その為に使用されなくなったら天井部分の崩落が起こり、現代それが完璧に残る遺跡がまだ発見されていないのだ。オクタカス遺跡でテオはその完璧な遺跡を目撃したのだが、ある事件で天井を塞いでいた石が落とされてしまい、穴が開いてしまった。雨季が迫っており、サラの底に溜まったコウモリの汚物から外の遺跡を保護するために、大統領警護隊はサラの円形部分を爆破して人為的に崩落させてしまったのだ。ンゲマ准教授はその報告を受けた時泣いて悔しがったと言う話が、グラダ大学考古学部の新しい歴史の1ページに書き加えられたのだ。

「見つかると良いですね。」

 とテオは准教授を慰めた。

「俺もオクタカスでせめて写真を撮っておけば良かったと後悔しています。」

 ンゲマ准教授が首を振った。

「貴方は落盤事故で危うく大怪我をなさるところだったのでしょう。写真なんて撮っていたら、命を失っているところでしたよ、きっと。」

 いや、もっと余裕があった、とテオは思ったが、言葉に出さなかった。何もかもお見通しと言う風情のケサダ教授は、弟子に囁いた。

「カブラロカは行ったのか?」

 ンゲマ准教授が、ハッとした表情になった。

「あそこはまだ未調査で・・・」
「雨季明けに行ってみなさい。小さな遺跡だが、メサがすぐ背後にある。オクタカスと配置が似ている。」

 ンゲマ准教授は頷き、テオに挨拶して人文学舎の方向へ歩き去った。

「彼は焦っていますね。」

とテオが言うと、教授は苦笑した。

「彼が出席した審議会で申請却下した案件が生き返って動き出したからでしょう。それに対して彼が肩入れしてきたフランス隊は最近不祥事続きだ。モンタルボに嫉妬しているのです。」


 

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