2022/03/22

第6部 七柱    2

  真の名はテオドール。 ただそれだけのフレーズなのに、テオの心にしっかりと刻み込まれた。ジーンときた。感激してしまった。だから、教授達がそれぞれ休憩を終えて、一人ずつ挨拶して席を立っても生返事で送ってしまった。
 気がつくと、フィデル・ケサダ教授だけが残って、まだコーヒーカップを片手に新聞を読んでいた。彼はテオの微かな戸惑いを察して、視線を向けてきた。

「随分ぼんやりしておいででしたね。」

 ウリベ教授の言葉に感激するあまり茫然自失になっていたことを、教授はお見通しだった。テオは極まり悪くて、苦笑するだけだった。

「テオドール・アルストが真の名前だと言われて、ちょっと訳なく感激してしまったんです。尤も大勢に知られているから、真の名の縛りはないですけどね。」

 ケサダ教授は微笑んだだけだった。テオは挨拶して研究室に戻ろうとした。すると携帯電話に着信があった。ポケットから出して画面を見ると、ケツァル少佐からメッセージが届いていた。夕食のお誘いだ。思わず彼は呟いた。

「帰って来たのか。」

 早速誘いに応じる返信を送った。時間と場所はいつも同じだから、わざわざ書いたりしない。ケサダ教授は知らん顔をして新聞を読んでいた。テオはふと思った。彼はモンタルボ教授が襲撃されたことを知っているだろうか。グラダ・シティでは北部国境の町で起きた強奪事件は報じられなかった。地方で起きた強盗事件を首都の住民は気にしないのだ。だが、考古学界ではどうだろう。テオはケサダ教授に声をかけてみた。

「サン・レオカディオ大学のモンタルボ教授が事前調査の撮影機材や記録映像を強奪されたことはご存知ですか?」

 ケサダ教授が新聞から顔を上げて彼を見た。

「モンタルボが襲われたと仰いましたか?」

 すっとぼけているのか、本当に知らないのか、テオは判断がつかなかった。仕方なく、己が知っていることだけ伝えた。

「一昨日、彼等は本格的に潜って調べる前段階の調査で、船の上から海底を撮影したそうです。ところが港に戻ると、いきなり目出し帽を被った男達に襲われて、撮影機材や映像を記録した媒体を奪われたとか・・・」
「モンタルボやスタッフに怪我は?」
「軽傷だと聞いています。俺が知っているのは、それだけです。」

 ケサダ教授が新聞を畳んだ。

「お話だけ聞くとただの強盗事件の様に聞こえますが、大統領警護隊文化保護担当部が出動したのですか?」
「スィ。事件があった夜に、本部から少佐に電話がかかって来て、調査の為に少佐とアンドレ・ギャラガがクエバ・ネグラに向かいました。」

 ケサダ教授が怪訝な表情になった。

「大統領警護隊本部がどう言った理由で、考古学者襲撃事件の調査をケツァルに命じたのですか?」
「そこのところは俺もよく理解出来ないのですが・・・」

 テオは一昨夜のバルの前でケツァル少佐が語った命令の内容を思い出そうと努めた。

「襲われたモンタルボが、文化保護担当部に連絡しようとして、間違えて国境警備隊に電話をしたらしいのです。国境警備隊は強盗事件の捜査なんてしませんから、きっとそう言うことなのだろうと、ロホが言ってました。国境警備隊が考古学者の事件なので、文化保護担当部に連絡してくれと本部の司令部に連絡したので、ケツァル少佐が司令部の命令を受けた形で出動したのです。」

 ケサダ教授はニコリともせずに感想を述べた。

「つまり、責任のたらい回しですね。」
「でも、発掘が実際に始まった訳ではないので、文化保護担当部の警護責任はまだ発生していないでしょう?」

 テオが抗議に似た口調で言ったので、教授は初めて苦笑した。

「確かに、その通りです。強盗事件は憲兵隊に任せておけば良いのです。文化保護担当部はとばっちりを受けたのです。」
「きっとただの強盗事件だったんですよ。だから少佐とアンドレは今日帰って来た。」

 ケサダ教授もあっさりと彼に同意を示した。元からカラコルの海底遺跡に興味がない人だ。モンタルボは私立大学の教授で彼の同僚ではない。友人でもなさそうだ。モンタルボに付いたスポンサーも撮影協力者の動画サイト制作会社も、奇妙な問い合わせ電話をかけて来た男も、ケサダ教授とンゲマ准教授は全く気にしていない。恐らくムリリョ博士は歯牙にもかけないだろう。

「もし、発掘調査が上手く進んで、カラコル遺跡の全容が明らかになったら、その時は貴方も多少興味を持たれますか?」

 テオが質問すると、教授は微笑して頷いた。

「我が国の遺跡ですから、調査結果には大いに興味があります。だが、私は水に潜って調べたくない、それだけです。」


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