「アベル・・・」
エステバン少年がビダルの胸に顔を押し付けたままで呟いた。ビダルは彼の体を己の胸から離し、顔を見た。
「さっき、ここへ近づいたのは、アベル・トロイか?」
少年が首を振った。違う、と。ビダルはステファン大尉に視線を移した。ステファン大尉は立ち上がって、ロノイ大尉と”心話”を交わしたところだった。アクサ大尉は自身が指揮する第7班と共に格納庫の外へ出て行ったので、姿が見えなかった。”心話”を終えたロノイがどこかに電話をかけた。
数分後ロノイ大尉がビダルのそばへ来た。直属の上官が近づいて来たので、ビダルは少年の肩を抱き寄せる形で立ち上がり、指示を待った。ロノイ大尉はエステバンの顔を眺め、それから部下に視線を戻した。
「先刻の『何か』はその子を追って来たのかも知れない。デランテロ・オクタカスの憲兵隊にその子を任せるのは、ちょっと不安だ。」
憲兵隊にも”ヴェルデ・シエロ”はいるのだが、デランテロ・オクタカス支部にはいない、と言うことだ。大尉達は先刻の「嫌な気配」が普通の人間や動物ではないと考えている、とビダルは察した。グラダ族のステファン大尉が滅多に発しない威嚇の気を放ったのだ。相手は尋常でないモノだ。ビダルは上官に質問した。
「この子をグラダ・シティに連れ帰るのでありますか?」
「ノ」
ロノイ大尉は即答した。
「子供の面倒を見る暇は我々警備班にはない。大統領警護隊の役目でもない。憲兵隊がトロイ家の親族を探している。その子は教会が預かるそうだ。」
教会に子供を預けるのは憲兵隊に任せるより不安ではないか、とビダルは内心思ったが、反論しなかった。その代わりに申し出てみた。
「親族が現れる迄、私がこの少年を護衛しましょうか?」
しかし、その申し出はあっさり却下された。
「君には警備班のルーティンをこなしてもらわねばならぬ。その子の護衛は遊撃班が行う。」
想定外の出来事に対処するのが遊撃班の任務だ。ロノイ大尉の言葉は理にかなっていた。ビダルは不満を押し隠し、頷いた。そこへアクサ大尉と第7班が戻って来た。
「逃げられた。だが、どう言う輩かは見当がつく。」
アクサ大尉は、仲間に告げた。
「滑走路の向こうの藪に血の匂いが残っていた。人間の血だ。恐らく、殺人者がその子供を追跡して来たのだ。」
大統領警護隊の隊員達は、エステバン・トロイを見た。第8班の隊員の一人が考えを口に出した。
「その子供はジープでここへ連れて来られました。殺人者はジープを追って来たのですか?」
アクサ大尉はその質問に考えることもなく答えた。
「子供の匂いがジープのタイヤ痕の辺りで消えて、ジープは森の中の一本道を通ってここへ走って来た。恐らく他の車の轍が重なることはないだろう。だから安易に追跡出来たと考えられる。」
「わかりました。」
素直に質問者は納得した。アクサ大尉の説が正しいとすると・・・とビダルは思った。追跡者はずっとエステバンを森の中で探していたのだ。ビダルとキロス中尉が少年を川で洗ったり、ステファン大尉達と出会って休憩させたりしている間に接近して来たのだろう。
「子供を事件の目撃者として、消しにかかろうとしていたのか?」
とロノイ大尉が呟いた。邪悪な気を放つ追跡者。大統領警護隊は厄介な敵がいると感じ始めていた。
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