2022/05/17

第7部 渓谷の秘密      1

  ケツァル少佐はグラダ・シティの自宅で、真昼間にも関わらず1人の時間を過ごしていた。休業するつもりなどなかったのだが、彼女が指揮する文化保護担当部が置かれている文化・教育省のビルがある問題を抱えてしまったからだ。文化・教育省が入居している4階建ての雑居ビルの何処かで、トイレの排水管が詰まってしまった。その結果、庁舎内は勿論のこと、ビルの1階で営業しているカフェ・デ・オラスも、少佐が一度も入店したことがないド派手な衣装を販売しているブティックも、省庁の職員達の主治医みたいな内科の診療所も、物凄い臭いに閉口し、一斉に休業してしまった。業者が呼ばれ、現在何処が臭いの発生源なのか調査中だ。
 職場に物理的な問題が発生した場合、セルバ共和国では場所を替えて仕事をすると言うことをしない。労働者は休んでしまう。休んだ分だけ給料が減るのだが、その間は別の仕事を見つけて働いても誰も文句を言わない。
 大統領警護隊文化保護担当部は文化・教育省文化財・遺跡担当課が休めば自分達も休む。発掘申請書は文化財・遺跡担当課が受理して文化保護担当部へ回すので、肝心の書類が回って来なければ文化保護担当部の仕事はない訳だ。
 少佐が休業を宣言すると、アンドレ・ギャラガ少尉は大学生に変身してグラダ大学へ行ってしまった。考古学部の通信制の学生だが、たまには全日制の授業を受けてみようと言う魂胆だ。マハルダ・デネロス少尉も溜まっていた大学の課題を消化する為に図書館へ行った。アスルはカブラロカ渓谷の遺跡の監視業務に就ているので不在だ。ロホも市内で行われている建設現場で出土した遺跡調査の巡視に出かけて、そのまま自宅へ直帰すると言っていた。
 ケツァル少佐は暇だった。文化保護担当部に届く申請書が丁度途切れたタイミングでトイレが詰まったので、彼女の仕事がなかった。だから彼女は自宅に帰った。突然の雇い主の帰宅に家政婦のカーラがちょっと迷惑そうだったので、彼女は「別宅」、即ちパートナーのテオが使っている居住区へ入った。テオはグラダ大学生物学部遺伝子工学科の准教授で、最近仕事が忙しい。隣国からの依頼で、20年前に隣国で起きたクーデターの犠牲者の遺体が数10体発掘され、身元鑑定のためのD N A分析に没頭していた。だから昼間、彼の居住区には誰もいなかった。
 テオの寝室は2人の部屋だ。少佐の寝室には時々女性の友人や部下が泊まるので、彼女は男性を入れない。男性客は彼女の居住区の客間に泊まる。テオの居住区の客間は、テオ個人の研究室になっていた。遺伝子抽出の為の機械や冷蔵庫、コンピューターが置かれている。大学で研究出来ないもの、つまりテオ自身の永遠のテーマとなる”ヴェルデ・シエロ”のD N A分析を行う部屋だ。少佐には理解出来ない世界なので、彼女は決してプライベイト研究室に入らない。例え家主であっても、彼女の慎みだった。
 暇を潰す為に、彼女はテオの居住区のリビングにいた。普段寛ぐ時は彼女の居住区のリビングを使う。それはテオも同じだ。だが、今はカーラが掃除をしたり、夕食の仕込みをしたりしている。家政婦の仕事の妨害をしたくないので、少佐はテレビも家具もないがらんとした部屋で、唯一置かれている古いソファの上に寝そべって帰り道に購入した雑誌を眺めていた。たまにはゴシップ紙も良いもんだ、と思っていると、突然頭の中でママコナが話しかけてきた。

ーー汚れを聖都に入れないで。

 ”曙のピラミッド”に住まう”名を秘めたる女の人”が聖都と呼ぶのはグラダ・シティのことだ。少佐はちょっと考えた。ママコナの言葉は時に抽象的で、話しかけられた”ヴェルデ・シエロ”は意味を理解するのに時間を要することが往々にあった。結局聖なる巫女が何を拒んでいるのか判明しなかったので、少佐は問いかけた。

ーー汚れとは?

 ママコナは短く答えた。

ーーエル・ジャガー・ネグロが持っている。

 そして彼女からのアクセスは途絶えた。
 少佐は雑誌を胸の上に置いて考えた。エル・ジャガー・ネグロは彼女の異母弟カルロ・ステファンのことだ。ステファン大尉が今何処で何をしているのか知らないが、何か良くない物を拾ったようだ。ママコナはそれが首都に入ってくることを拒んでいる。恐らくステファン本人に命令したいのだろうが、白人の血が混ざっているステファンにママコナの言葉は理解出来ない。だから姉のケツァル少佐に依頼が来たのだ。
 少佐は体を起こした。暇潰しが出来たようだ。まずは、ステファン大尉が何処にいるのか調べなければならない。

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