2022/06/30

第7部 取り残された者      16

  日数計算で言うと、グラダ・シティを出発して4日目、検体採取を始めて3日目になった。午前中にやって来る村人は少し減った。珍しさが減り、午前中に来られる人は来尽くしたと言うことだ。カタラーニが自ら買って出て、村の学校へ行き、採取がまだの子供達と教員から細胞を採取した。教員は村の外から来ていたが、調査の性質上それは問題でなかった。子供達も村外から来ている子が数人いたのだ。だからカタラーニは子供達の家の場所や家族構成をしっかり記録しておいた。
 考古学の方はあまり目敏い発見がなく、ケサダ教授とギャラガ少尉は壺や室内装飾を見せてもらえる家を回った。そして学者らしくもなく早々に「文化的に特徴がある共通性はなし」と結論を出してしまった。言葉もすっかりスペイン語に置き換わっており、カブラ語の片鱗も残っていなかった。
 昼食を終えると、半時間程昼寝をしてから、テオとケサダ教授はコボス家へ出かけた。ボッシ事務官と村長も同伴した。コボス家に調査の説明をしなければならなかったからだ。
 コボス家は村から少し外れにあり、狩猟で生活していた家らしく、あまり豊かとは思えない、バラックの様な家だった。軒先にかなり前に獲ったと思われる動物の皮が干されたままで、すっかりカラカラに乾ききっていた。もう売り物にならないのではないだろうか。
 村長が木製のドアを拳で叩き、ペドロ・コボスの母親の名前を怒鳴った。

「ビーダ、客だ!」

 ゴソゴソと音がしてから、蝶番の錆びついた音を立てながら、ドアが開いた。テオは彼の身長の半分もあるかないかの小さな老女が立っているのを見た。少し腰が曲がっている様だ。髪は少し黒い毛が残っているが殆ど黄ばんだ白髪だった。メスティーソの女性なのだろうが日焼けして皺だらけになった顔は先住民の高齢者とあまり違いがない様に見えた。彼女は村長を不思議そうに見た。

「ニック、いつの間にか歳を取ったみたいだね。」

 訛っているが聞き取れるスペイン語だった。つまり、先住民の言語は使用していないのだ、とテオは思った。村長はうんざりした顔で言った。

「今朝も会ったところだろう。」

 彼はテオとケサダ教授、そしてボッシ事務官を紹介した。

「お上からの指示だ。あんたとホアンの口の中のD N Aを取るそうだ。」

 ビーダと言う老女は手で口元を隠した。ボッシ事務官が素早く説明した。

「セルバ共和国のカブラ族と言う部族の親戚を探しています。口の中を綿棒で擦るだけです。数秒で済みます。痛くも痒くもありません。協力をお願いします。」

 元軍人の外務省職員は出来るだけ穏やかな口調で言った。ビーダはぼんやり客を眺め、そして手を振った。

「中で茶でも飲んでいきな。」

 屋内に入ると、暫く真っ暗で何も見えなかった。”ヴェルデ・シエロ”は見えるのかと横を見ると、ケサダ教授もちょっと立ち止まって目が慣れるのを待っていた。それが普通の人間のふりなのか本当の動作なのかテオは判別出来なかった。ボッシ事務官も村長も同様で、数秒ほどしてから彼等は狭い家の中に入った。
 木製のテーブルと椅子が木製の床の上にあり、右端に台所の様な空間があった。竈と大きな水瓶が置かれ、鍋や皿を積み上げた木製の棚が少し傾いていた。冷蔵庫もあったが、古い型で使用していないと思われた。モーターの音がしなかったからだ。
 食堂兼リビングはごちゃごちゃと物が置かれ、奥に分厚いカーテンが下がって仕切りになっていた。向こうが寝室なのだろう。家(と言うより小屋)の大きさを考えたら、2部屋しかなさそうだ。あの仕切りの向こうに引き籠りの長男ホアンがいるのだ。
 ビーダは古い薬缶に水瓶から水を汲んで入れた。上水道があると思えなかったので、雨水を溜めたのだろう。テオは衛生的問題を考慮してお茶を遠慮した。ガスコンロで湯を沸かす間に村長と事務官が再びビーダを説得して、頬の内側を綿棒で擦らせることに成功した。

「ホアンのサンプルも欲しいのだが。」

 村長がそう言った時、いきなりカーテンが揺れ、太った男が現れたので、客達は驚いた。事務官と村長は一瞬椅子から腰を浮かしかけた。ケサダ教授はジロリと男を見て、座ったまま右手を左胸に当てて「ブエノス・タルデス」と挨拶した。”ヴェルデ・シエロ”流挨拶とスペイン語の挨拶の混合形態だ。男は反応しなかった。母親をジロリと見て、ボソッと言った。

「頬の内側を擦るだけか?」
「スィ。」

 テオが答えると、男は母親を見たまま、また尋ねた。

「それをすれば、こいつらは帰るのか?」
「スィ。」

 テオがもう一度答えると、やっと男は彼を見た。そして無言でそばに来て、口を開けた。無精髭だらけの顔に黄ばんだ歯、口臭が臭かったが、目は濁っていなかった。テオは「失礼します」と声をかけて、綿棒で彼の頬の内側を擦った。そして綿棒をビニルの小袋に入れ、封筒に入れた。

「終了しました。」

 男は口を閉じ、無言でくるりと背を向けると、再びカーテンの向こうへ姿を消した。
 ビーダが客に言った。

「息子がもう1人いるんだけど、まだ猟から帰って来ない。」

 その息子はもう死んでいるのだ。しかし誰もそれを口に出さなかった。
 ケサダ教授が立ち上がったので、テオと他の2人も立ち上がった。教授が挨拶した。

「突然押しかけて申し訳ありませんでした。」
「グラシャス。」

 テオも挨拶した。そして彼等は異臭のする小屋から出た。結局誰もお茶を飲まなかった。



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