2022/10/23

第8部 シュスとシショカ      4

  目上の人の目の前で逃げ出すと言うのは、大変失礼なことだ。そしてそんな振る舞いを一度でもしてしまうと、以降の部族社会では決して尊重してもらえなくなる。ケマ・シショカ・アラルコンはその場に立ち竦んだまま、ムリリョ博士が近づいて来るのを待った。テオは口元を紙ナプキンで拭って立ち上がった。そして博士がテーブルに十分近づいた頃合いを測って、右手を左胸に当てて挨拶した。

「突然のお呼び出しと言う無礼をお許し下さい。」
「いつものことだろう。」

 ムリリョ博士は怒っている風に見えなかった。ケマ・シショカ・アラルコンを無視して、若者が直前迄座っていた席に腰を降ろした。まだケマ・シショカ・アラルコンが突っ立ったままだったので、テオは仕方なく紹介した。

「ご存知かも知れませんが、ケマ・シショカ・アラルコンです。俺とは今日が初対面です。」

 ムリリョ博士が目下の人間を無視するのはいつものことだ。若者に一瞥さえくれずに、テオを真っ直ぐに見た。

「要件は何だ?」
「この場所で話すべきではないと思うのですが・・・」
「構わぬ、誰も聞き耳など立てておらぬ。」

 ムリリョ博士はいつも強気だ。仕方なくテオは語り始めた。

「一昨日から昨夜にかけて、大統領警護隊文化保護担当部が、ピソム・カッカァ遺跡からアーバル・スァットの神像を盗み出したアラムとアウロラのチクチャン兄妹を本部へ保護しました。彼等の証言から、彼等を唆して神像を盗ませ、建設省に送りつけさせた男を遊撃班が確保して、これも本部に捕まえています。勿論、この話は全て貴方はご存知でしょう。遊撃班が捕まえた男は、貴方の部族の族長選挙に何らかの介入を試みたのだと思います。
 部外者が貴方の部族の中の政治に口出し出来ないことは知っています。しかし民間人が1人重傷を負わされています。他部族の人にも迷惑を掛けた様です。彼等に何らかの償いをしてもらえるのでしょうか? 遊撃班が捕まえた男は『大罪人』だと言われています。処罰は貴方方社会の中で行われ、迷惑を掛けられた民間人には何もないと言うのは、俺には納得いきません。それは文化保護担当部も、診療所の医師も同じだと思います。」

 ムリリョ博士が白く長い眉毛の下からテオを見ていた。

「爆裂波を喰らって頭を怪我した遺跡の警備員は、ブーカ族の長老の力で一命を取り留めたと聞きました。しかし完全に元の体に戻ることは難しいでしょう。彼には家族がいる筈です・・・」
「襲われた者は気の毒だった。」

と博士が囁くように言った。

「しかし、我々には白人社会の様な賠償責任や補償と言ったしきたりも慣習もない。だから罪人に襲われた男に償う機会を罪人に与えることはない。」
「それでは・・・」
「聞け。」

 ピシャリと言われて、テオは口を閉じた。長老の話を遮ってはいけないのだ。そしてこの場面では、テオの不作法を取りなしてくれるケツァル少佐はいないのだった。
 ムリリョ博士が続けた。

「襲われた男を雇ったのは、オルガ・グランデのアントニオ・バルデスだ。バルデスの会社は金を持っている。バルデスの会社は遺跡の警備員の安全に責任がある。だから、アンゲルス鉱石が男の面倒を見る。」

 アントニオ・バルデスの義務の話をしているのではない。ムリリョ博士は、バルデスに警備員のこれからの生活の補償をさせると言っているのだ。それが”ヴェルデ・シエロ”流の賠償責任の取り方だった。オルガ・グランデにはマスケゴ系のメスティーソが多い。彼等はグラダ・シティに移住した主流派のマスケゴ族達に現在でも忠誠を誓っている。一般人が”ヴェルデ・シエロ”に歯向かうなら、彼等が動くのだ。だからオルガ・グランデでは首都よりも”ヴェルデ・シエロ”を恐れる人が多い。どこで誰が耳をそば立てているかわからないから。
 テオは「グラシャス」と言った。族長が交代しても、今の族長の命令は生き続ける。それが彼等の掟だ。

「バスコ診療所がアラム・チクチャンの手当をした治療費は・・・」
「それはチクチャンが払うべきだ。」

 そう言ったのは、ケマ・シショカ・アラルコンだった。彼の存在を忘れていたテオはびっくりして、テーブルのそばに立っている若者を見上げた。ケマ・シショカ・アラルコンは頬を赤く染めた。

「不作法な真似をしました。申し訳ありません。」

 彼はムリリョ博士に謝罪した。博士が初めて彼に気がついたかの様に、上から下まで彼をジロリと見た。

「何者か?」

 そうだ、このケマ・シショカ・アラルコンは何者なのだ? テオも知らなかった。



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