2022/11/25

第9部 シャーガス病     3

  やがて数分も経たぬうちに車は広い公園の様な場所に入った。

「グラダ大学の敷地内です。貴方のご要望はアパートだったのですが、手頃な物件が見つかりませんでしたので、暫く職員寮に入っていただけますか? 個室です。」

 マイロはそれで手を打つことにした。国立感染症センターから出してもらえる住居費の範囲で、大学への通勤時間が30分以内のアパートと言うのは難しいのだろう。車で来る道中に見たのは雑居ビルの上階がアパートになっている様な住宅ばかりだった。安いのかも知れないが、シャワーやトイレなどの衛生面が気になったし、セキュリティも万全と言えない筈だ。

「学生達は寮に入っているのですか?」
「学生寮は学生の実家の収入条件があります。出来るだけ貧しい家の子供から優先的に入れますので、恵まれた家庭の出身の学生は車で10分以上かかるサン・ペドロ教会周辺の住宅地にアパートを借ります。大学が指定した訳ではないのですが、家賃や生活環境が好ましいと判断されて、自然に学生達が集まったのです。」
「それじゃ、僕も移動手段を確保出来たら、そちらへ引っ越せば良いのですね?」
「スィ。大学と文化・教育省と保健省と外務省にお届け出さえ怠らなければ。」

 四箇所も届けを出さなければならないのか。マイロは内心げっそりした。するとそんな彼の心を見透かしたように、バルリエントスが笑った。

「貴方は永住なさる訳ではないので、手続きが多くなるのです。でもコネがあれば物事はスムーズに行きます。」
「コネ? 付け届けとか・・・」

 また彼女が笑った。

「付け届けを渡して動いてくれると信用する相手はまだいないでしょう? 私が言っているのは、職場に同じ様な経歴を持っている人を見つけると言うことです。」
「同じような経歴・・・?」
「スィ、アメリカから来られて大学で働いていらっしゃる博士達です。」

 バルリエントスは魅力的な大きな目を片方瞑ってウィンクした。
 やがて車が一棟の灰色のビルの前で停まった。

「着きました。職員寮です。」

 運転手が降りて、トランクに入れたマイロのスーツケースを出した。マイロとバルリエントスも降りた。運転手が英語でマイロに話しかけた。

「寮監を呼んで来ます。」

 そして足取りも軽く建物の中へ入って行った。マイロはビルを見上げた。3階建てで、壁面の汚れ具合から見るに、築10年は経っていそうだ。

「こちらは男女兼用です。」

とバルリエントスが言った。

「男が1階と2階、女が3階です。単身者用です。結婚している人は通常、寮には入りません。」
「だろうな・・・」

 見るからに新婚家庭を築きたくない雰囲気だ。

「買い物はキャンパス内と病院にコンビニが入っています。」
「病院?」
「大学病院です。医学部に併設されています。」
「ああ・・・」

 自分はこれからこの大学の医学部で働くのだ。マイロはキャンパス内を見回すように周囲に視線を向けた。寮はキャンパスの端にあるのだろう、大きな建物は植え込みの向こうにいくつか見えていたし、そちらの方から賑やかな人の声も聞こえていた。
 その時、バルリエントスが重要なことを言った。

「お部屋に入られたら、まずサシガメや蠍が物陰や物の下にいないか確認して下さい。」
「え?」

 思わずマイロは彼女を振り返った。

「サシガメがいるんですか?」
「いますよ。」

 バルリエントスはケロリとした表情で答えた。

「中南米ではどこにでもいます。セルバも例外ではありません。」
「でも、セルバでシャーガス病の発症例はないと聞きましたが・・・」
「ゼロではありません。ただ、セルバではセルバの神々が私達を守って下さるので、刺されても直ぐに処置を行えば助かります。」

 彼女はそれ以上のことは言わず、運転手と共にやって来る初老の男性に手を振った。

 


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