2022/11/26

第9部 シャーガス病     5

  アダン・モンロイは中古のドイツ製スポーツワゴンを持っていた。もし今夜学部に挨拶に行かないのなら、一緒に買い物と夕食に行こうと彼はマイロを誘った。もうマイロのことをアーンと呼んでいた。やたらと人懐っこいので、うざくなる程だったが、間も無くそれはこの国の人間なら普通の他人との接し方だとマイロは知った。部屋を出て、駐車場へ行く迄の間に出会った人々は皆モンロイと親しげに言葉を交わし、マイロにも挨拶してくれたが、半分は知らない人だとモンロイは説明した。

「基本的に、この国の人間は親切で陽気なんだ。ただ、先住民には気をつけた方が良い。彼等には部族毎に独特の風習や礼儀作法があるから、怒らせると一生口を利いてくれないこともある。」

 そう言ってモンロイは可笑しそうに笑ったので、冗談なのか本当のことなのかマイロは判断しかねた。
 車に乗り込むと、モンロイはマイロに買い物は現金かカードかと尋ねた。マイロがカードだと答えると、カードの種類を訊いて来た。

「使える店とそうでない店があるから。」

 それでマイロがカードの種類を言うと、大学から車で5分の所にあるスーパーマーケットの様な所に連れて行ってくれた。メルカドと呼ばれる集合市場の様な場所で、大きな建物の中に個人の店が入居しているのだ。

「もっと大きなメルカドもあるんだが、そこは基本的に現金だ。このメルカドはカードやスマートフォン決済が使える。」

 そしてモンロイはマイロが台所で使う小鍋やフライパンやケトル、食器を購入するのに値段交渉までしてくれた。余りに親切なので、何か裏があるのではないかと疑ってしまいそうだ。

「取り敢えず、今日は台所用品だけで良いだろう? 他の物は明日から、あんたが自分で揃えていけば良いさ。」
「有り難う・・・グラシャス、凄く助かるよ。」

 マイロが礼を言うと、モンロイはニヤッと笑った。

「僕は外国人と話をするのが好きなんだ。夕食に付き合ってくれよ。あんたの国の話やあんたの仕事の話を聞かせてくれ。その為に親切にしたんだぜ。」
「それじゃ・・・」

 マイロもニヤリと笑って見せた。

「君の話も聞かせてくれ。それから大学でのルールや教授達のこととか・・・」

 モンロイは一旦寮へ戻り、マイロの荷物を部屋へ運ぶのを手伝ってくれた。そして彼自身の部屋、廊下ではマイロの部屋の右隣の部屋の中を見せてくれた。広さはマイロと同じ、だが壁にラテンアメリカの有名芸能人のポスターやサッカー選手のポスターが貼られており、書棚には詩や文学系の書籍がぎっしり詰め込まれていた。パソコンも置かれていた。

「僕は講師だから、まだ研究室をもらえないんだ。だからこの部屋が僕の研究室。図書館が書斎だな。」
「授業は週に何回?」
「今期は3回。それだけじゃ食べていけないから、家庭教師とメルカドの売り子もやっている。あんたはラッキーだ。今夜は仕事がないんでね。」

 それはつまり、モンロイと出会う機会は週にそんなにないと言うことなのか? マイロはちょっと寂しく感じてしまい、少し自分で驚いた。いつの間にか、この人懐っこい男を頼りにしてしまいかけている。
 夕食には歩いて出かけた。グラダ大学と文化・教育省などがあった雑居ビルの通りの間には商店街が数本あり、飲食店が沢山あった。殆どの店の開店時間はもう少し後だと言いながら、モンロイは行きつけの早く店を開けるバルに入った。立ち飲みスタンドの様な店だが、早々と客が集まりかけていた。そこでモンロイはセルバ流の夕食の取り方を教えてくれた。先ずバルで軽いビールと数種の小皿料理を注文する。食前酒と前菜の様なものだ。その店で満腹になるまで居座っても良いし、別のバルに移動しても良い。さらに正式なディナーとしてちょっと値の張るリストランテに入っても良いのだ。マイロはバルの奥にテーブル席があるのを見つけて、そこへ移動しようとモンロイを誘った。話をするなら、ゆっくり座って食べたかった。
 モンロイはマイロにアメリカではどんな病院で働いていたのかと訊いた。医者だと名乗ったので、病院勤めだと思ったのだ。マイロが国立感染症センターで微生物感染症の研究をしていると言うと、目を丸くした。

「それじゃ、あんたはエリートなんだ!」
「びっくりする程偉くないけどね。」
「だって、国の機関なんだろ? そんな凄い所から、こんなちっぽけな国へ何を研究しに来たんだい?」
「シャーガス病の研究だよ。」
「シャーガス病?」
「サシガメ類の昆虫に刺されて感染する病気で・・・」

 そうか、セルバ人はシャーガス病を知らないんだ、とマイロは気がついた。シャーガス病の発症例がない国だから。しかしサシガメはいるのだ。イメルダ・バルリエントス博士は彼にサシガメや蠍に気をつけろと言ってくれたではないか。彼はモンロイにシャーガス病の説明を簡単にしてから、サシガメが寮にいるのかと尋ねた。モンロイはちょっと困った表情をした。

「僕等の部屋は2階だから、蠍はいない。サシガメも・・・地方へ行った時は見たことあるけど、寮じゃ見ない。グラダ・シティにいるかどうかも知らない。」
「確かに、ここは都会だよね。でも緑地も結構多いと思う。中南米では普通にいる昆虫なんだ。ただ、セルバではこの病気の発症例が報告されていないんだよ。だから、その謎を究明しようと僕が来た訳だ。病原となるクルーズトリパノゾーマがこの国に存在しないのだとしたら、その理由を突き止めて、中南米一帯の感染予防策に採用出来るだろう?」
「それじゃ、あんたは・・・」

 モンロイがマイロを眩しそうに見た。

「ラテンアメリカの人々の為に研究しているのか?」
「大袈裟だけど、確かにその通りだ。僕は誰かの役に立ちたいから、微生物の研究をしている。」

 モンロイはビールをグッと飲み干した。

「だけど難しいと思うな。だってそうだろ? 存在の証明は簡単だけど、不在証明は困難だって言うじゃないか。」


0 件のコメント:

第11部  紅い水晶     19

  2台目の大統領警護隊のロゴ入りジープがトーレス邸の前に到着した時、既に救急車が1台門前に停まっていた。クレト・リベロ少尉とアブリル・サフラ少尉がジープから降り立った。2人は遊撃班の隊員で、勿論大統領警護隊のエリートだ。サフラ少尉が一般にガイガーカウンターと呼ばれる放射線計測器...