2022/12/02

第9部 シャーガス病     10

  アーノルド・マイロがセルバ共和国に入国して1ヶ月経った。彼はグラダ大学の職員寮に住み、医学部微生物研究室でシャーガス病がセルバ共和国で発症していない事実を確証しようと研究していた。と言っても、この1ヶ月は文化・教育省へ大学職員として働くための手続きで通ったり、保健省で感染症の症例に関する資料を閲覧する為の許可を申請したり、国内を資料収集の為に移動する許可を得る為に外務省へ行ったり、内務省へ行ったり、と忙しく、研究らしいことは殆ど出来なかった。この南国の役所は、兎に角どの省も部署も、緩いのだ。書類を提出して、次の日に、記入の誤りや抜けた箇所の指摘の連絡が来る。書類を返してもらいに行き、訂正して提出すると、申請受理の連絡が来るのはまた次の日で、その日が週末だったりすると次週に持ち越しだ。しかも書類の種類によって担当部署や担当者が異なり、同じ建物の中を行ったり来たりする羽目になるのだった。
 唯一人の助手ホアン・チャパはマイロをドクトル・ミロと呼んだ。訂正しても直ぐ間違えるし、役所の職員達もミロと呼ぶので、マイロは1ヶ月でアーノルド・ミロに改名した気分になった。一度ある役人が彼のスペイン語が堪能なことを感心して称賛した。

「アメリカ人でそんなに喋れるなんて思いませんでした。もしかして、ジャマイカ人ですか?」
「いや、カリブ諸国に親戚はいない。だけど、研究の為にもっと若い頃からメキシコから島々やベネズエラ辺りを歩き回っていたからね。」
「ああ、成る程ね。商社マンではなかったんですね。」
「商社マンだったら、何か都合悪いのかい?」
「そうじゃありませんが・・・」

 役人が罰が悪そうに苦笑した。

「スパイ映画とかで、C I Aがよく商社マンとか新聞記者になっているじゃないですか。」

 マイロは噴き出した。

「僕がスパイだって思った? そうなら、もっと自由に活動しているよ。僕は今大学の規則に縛られているんだから。寮の門限が午後10時なんだ。」
「それはお気の毒に。」

 週末は日付が変わっても外で騒ぐセルバ人が大笑いした。
 大学のカフェは医学部よりも全学部共通の場所であるキャンパス中庭に面した大きなカフェが人気だった。学生も職員もそこで昼食を取るので、医学部のカフェは午前のお茶などでコーヒーや菓子を出す程度だ。食事を取りたければ大きなカフェへ行く。料理は一流レストラン並みとは言えないまでもリーズナブルな値段でそれなりに美味しいし、量もあるので、マイロは朝食以外はそこで済ませることが多かった。たまに隣のモンロイと外食することはあるが、大学内で用が足りるのだ。寮にはコインランドリーがあったし、病院内にもコンビニがあった。しかし、そろそろ昆虫を採取しにグラダ・シティから出る頃だな、と彼は思った。行くべき場所を助手のチャパに相談して決めてから外務省へ許可を取りに行くと、結構大雑把に「セルバ共和国北部」と言う範囲で許可証をもらえた。

「感染症の原因を捕まえに行くから、人が住んでいる場所で昆虫を捕まえる。北部なら、どんな場所に行けば良いかな?」

 農村地帯を想定しながらチャパに話しかけると、助手は地図を出して、幹線道路を示した。

「グラダ・シティから西部の基幹都市オルガ・グランデを結ぶハイウェイです。ここをドライブしながら行く先々で民家の壁などを調べて行くのはどうでしょう?」
「人口は?」
「アスクラカンと言う都市はセルバ共和国3番目の都会です。先住民もいるし、農村も周辺に集まっていますから、サンプル採取なら、ここが一番最適でしょう。次に、エル・ティティと言う小さな町をハイウェイは通ります。ここは車が休憩する程度の本当に鄙びた町ですが、東西の移動には必ず通過します。昆虫の移動もあるでしょう。但し、宿泊出来る所は1軒しかありません。滅多にありませんが、稀に満室になっていることがあって、そんな夜にエル・ティティに到着すると悲劇です。」

 チャパは経験があるのか、苦笑した。マイロは興味を感じて、「そんな場合はどうする?」と尋ねた。チャパは答えた。

「教会にお願いして泊めてもらいます。エル・ティティだけじゃなく、この国では教会があれば泊まる場所を何とか確保出来ます。聖堂に泊まるか、どこかの民家を紹介してもらうか、ですけど。」

 彼は画面を移動させ、オルガ・グランデを出した。

「ここは、軍の病院が一番大きな医療施設で、医療に関することは軍病院で聞けば良いとされています。病気も怪我もそこで診てもらえます。民間の病院となると、医療費が高いので庶民は利用出来ないんです。ああ、でも・・・」

 彼はある一点を指した。

「ここはアンゲルス鉱石と言う一番大きな鉱山会社の病院で、従業員やその家族は格安で診療を受けられます。グラダ大学病院とも患者のデータ共有をしています。それで、ここ数年は一般の市民も軍病院の紹介があれば診てもらえるそうですよ。」
「それじゃ、シャーガス病の研究にも多少の情報を提供してもらえるかな?」
「多分・・・オルガ・グランデにシャーガス病の発症例があれば、ですけど。」

 それではオルガ・グランデを最終目的地にして、昆虫採取旅行に出かけようか、と言うと、チャパは喜んだ。

「君1人だけなら、旅費は僕の研究費から出せる。但し、食費は別だぞ?」
「わかってます。グラシャス、ドクトル!」

 マイロはチャパに抱きしめられ、頬にキスされた。このラテンの乗りはまだ馴染めないな、と思った。


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