2022/12/10

第9部 ボリス・アキム       4

  部屋は粗末なベッドが2台置かれた質素な場所だった。客間ではなく、入院患者用の病室だ。隣は大部屋でベッドはなく、患者がいる時はハンモックを吊るすのだと言う。床の上に直接寝かせたりはしないのだ。アキムと妻のセレーヌは2階に部屋があった。初老の使用人夫婦がいて、家事手伝いをしていた。
 午後の診療が始まると、パラパラと患者がやって来た。昼間聞いた産業医と言う言葉通り、近所の工場で怪我をした工員が多かった。病人は年配者で、若い人は多少具合が悪くても医者に掛からないのだろう。アキムが法外な診療費を取っている訳ではなく、住民が倹約しているのだ。

「医者より祈祷師を頼る人もいるのですか?」

とマイロが尋ねると、アキムが笑った。

「セルバ人を未開人だと思わない方が良いですよ。確かに祈祷師のところへ行く人もいますが、それは医者に見放された人です。治る見込みがない重病人です。」

 マイロは不思議に感じた。

「治る見込みがない人を祈祷して、患者が死んでしまえば、祈祷師は信用を失くすでしょう?」

 アキムはただ肩をすくめただけだった。チャパが何か言いたそうな表情をしたが、マイロは気づかなかった。
 夕食はセレーヌと使用人の妻が作った料理が並んだ。アスクラカンの習慣なのか、セレーヌは使用人と同じテーブルに着き、マイロはチャパとアキムと3人で食卓を囲んだ。
 食事中の話題はマイロの前職に対するアキムの質問から始まった。マイロは毎日研究室で顕微鏡を覗いていたと言った。事実そうだったし、原虫に冒された患者から検体を集めるためにシャーガス病が発生しているメキシコやコスタリカなどに出かけたりしたが、それ以上感染症センター外の人に説明出来る内容のことはなかった。

「ご存知の様に、シャーガス病の原虫を殺すにはベンズニダゾールやニフルチモックスの投与が必要ですが、その治療費は高額です。そしてこの病気が発生する国々は決して豊かではありません。また、これらの薬剤は妊婦や腎臓、肝臓が不全な患者には使えないし、ニフルチモックスは、神経疾患や精神疾患のある人に使用出来ません。だから僕はもっと安価な薬品を作るべきだと思いますが、それは薬学の世界です。僕は予防の観点から研究をしています。セルバ共和国ではシャーガス病の発症例が見られません。それが何故なのか知りたいのです。何故ここだけが、空白なのか・・・」

 アキムがチラリと隣室で食事をしている妻と使用人夫妻の方を見た。そして直ぐにマイロに視線を戻した。

「貴方がシャーガス病の治療に興味を持たれたのは何故です? お身内でその病気に感染した人がいたのですか?」

 マイロは頷いた。

「学生時代の親友の父親が感染者でした。仕事で南米生活が長かったのです。アメリカに帰国してから発症しました。幸い病名が判明したのが早かったので助かりましたが、世の中にそんな難病が普通の生活の中に存在することを知って衝撃を受けたのです。親友は外科の道に進んだのですが、僕は微生物由来の感染症研究に進路を決めました。」

 成る程、とアキムは呟いた。そしてチャパを見たので、チャパはちょっと恥ずかしそうに告白した。

「僕は研究室が決まっていなかったのです。あまり成績が良くなくて、僕を採用したがる研究室もなかったところへ、ドクトル・ミロが来られて・・・室長がドクトル・ミロの助手にならないかと勧めてくれたんです。」
「良く働いてくれる助手ですよ。」

 マイロが誉めてやると、若者は頬を赤く染めた。そしてアキムを促した。

「次は貴方の番ですよ、ドクトル・アキム。」

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