2022/12/11

第9部 ボリス・アキム       5

  ボリス・アキムはちょっと謎めいた微笑みを浮かべた。

「お2人は私がロシア人だと思っていらっしゃいますね?」
「スィ・・・街の食堂でそう聞いて来ました。」
「違うのですか?」

 マイロとチャパが戸惑いの表情になったので、アキムは笑った。

「祖父母はロシアからの移民です。だが、私はアメリカで生まれました。ニューヨーク出身ですよ。」
「え? アメリカ人なんですか?」

 マイロはびっくりした。アキムのスペイン語が完璧なので、中米生まれのロシア系住民だと思っていた。アキムはビールをグッと喉に流し込んでから、続けた。

「両親の親達はロシア出身です。私が生まれた頃はまだソ連だったかな・・・亡命と言うか、兎に角第二次世界大戦の前後にロシアを逃げ出してアメリカに渡って来たそうです。私はロシア系移民の3世として育ちました。だから、ロシア語は話せないんですよ。親の世代も殆ど英語で通していましたから。だけどロシア系のコミュニティの中で暮らしていたので、キリル文字を読んだり、多少の単語などは理解出来ます。私は高校に入る頃にコミュニティを出たくて、親に無理を言って全寮制の学校に入りました。コミュニティは貧しい家庭が多くて、嫌だったんです。犯罪に関わる人もいてね・・・」

 マイロは理解出来た。アフリカ系のアメリカ市民も同じだ。彼の実家は裕福で、彼は希望する医学の道に進めたが、マイノリティには違いない。
 アキムはまたビールを飲んだ。

「奨学金で大学に入り、医学を学びました。開業出来る金銭的余裕はありませんでしたから、研修で行った病院でそのまま働いていたのですが、中米の病院で働かないかと言う誘いがあったのです。まだ医師免許を取って2年目のことでした。聞いた限りでは条件が良かったので、応募したんです。しかし・・・」
「想像していたのと違ってました?」

とチャパがニッと笑って言った。アキムが苦笑した。

「スィ。設備も薬剤もお粗末で、だけど患者は多い。医者達はふんぞり返って治療は適当、私が勉強して行ったスペイン語ではなかなかコミュニケーションが取れなくて、ホームシックになりました。その頃に妻に出会ったのです。」

 彼は隣室の妻を見た。

「せレーヌはセルバ人で看護師の修行に外国に出ていたのです。彼女もその国の医療の実態にうんざりしていて、私とよく愚痴を話し合いました。私のスペイン語はお陰で上達したのですが・・・」

 彼はクスクス笑った。

「彼女がセルバに帰国すると言うので、私は勤めを辞めて、彼女について来ました。就労ビザを取らなかったので、観光ビザで・・・所謂不法滞在で違法就労です。彼女が戻った病院で臨時雇いの医者として働き出しました。」

 マイロはびっくりした。それではボリス・アキムは密入国扱いになるのではないか? 彼が驚いた表情をしたので、アキムがニヤッとした。

「私がやばい立場にいるとお考えですね?」
「違うのですか?」
「確かに、最初の1年間はいつ捕まるかとビクビクしていました。しかし、ある日、当時働いていた病院に大統領警護隊がやって来たんです。」

 アキムはマイロに念を押す様に尋ねた。

「ご存知ですよね、大統領警護隊のことは?」
「あ・・・大統領府の隣に本部があって・・・」
「この国に入国する時に、面接を受けたでしょう?」
「スィ・・・亡命・移民審査官に・・・」
「あの役職は、大統領警護隊の隊員が就くのです。つまり、病院に来た隊員は、正に亡命・移民審査官でした。私が何者か、何をしているのか調査に来たのです。」

 アキムは遠くを見る目をした。

「彼等は私に色々な質問をしました。私の出身地、家族、学歴、職歴、そしてセルバでの活動、根掘り葉掘り聞かれました。そして最後に、いつアメリカに帰るのか、と質問されました。」

 彼は視線をマイロに戻した。

「私は、帰るつもりがないことを告げました。その時、私はもうセレーヌと離れられなくなっていました。彼女のお腹には私の子供がいました。病院も私を頼りにしてくれていました。祖国アメリカでも任地の国でも、私は必要とされていなかった。しかし、セルバでは私を必要としてくれる。私の居場所はここしかないと思いました。私は、セルバ共和国に帰化を申請しました。永住権が欲しいと言ったんです。」

 アキムは当時のことを思い出したのか、ふっと大きな溜め息をついた。

「3ヶ月間、グラダ・シティの不法滞在者収監施設に入れられました。そこでは他の収監者達の健康管理を任されました。その間にきっとアメリカ政府とセルバ政府の間で私の処遇について話し合ったのでしょう。私は釈放され、1年間グラダ・シティの病院で働くことを命じられました。1年間、首都から出てはいけないと言われ、せレーヌと電話でのみ接触を許されました。彼女がグラダ・シティに行くことも1年間禁止されたのです。彼女が言うには、不法滞在者を隠していた罰だと言うことでした。」
「試されたんですよ。」

とチャパが言った。

「本当に貴方と奥さんがこの国で暮らしていく決心をしていることを。もし奥さんを首都に行かせて、夫婦で外国へ逃亡しちゃったら大統領警護隊の面目丸潰れでしょ?」
「そう思います。」

とアキムが笑った。

「1年間会えませんでしたが、せレーヌは出産して、私を待っていてくれました。子供は男の子で・・・今はアスクラカンの市民病院で働いています。」
「それじゃ、ハッピーエンドなんだ!」

 チャパが嬉しそうに声を上げ、マイロも笑顔が出た。アキムもニッコリした。

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