2022/12/05

第9部 ボリス・アキム       1

  アーノルド・マイロとホアン・チャパはレンタカーで昆虫採取の旅に出た。微生物研究室はマイロにこれと言った役割を与えていなかったので、彼が無期限の旅行に出ることに特に異論はない様子だった。ただ、室長のベンハミン・アグアージョ博士には毎日定時連絡を入れて現在地や助手の安全を報告する義務を課せられた。勿論、これはマイロ自身の安全確認のためでもあった。マイロが暫く旅に出ると告げた時、隣人のアダン・モンロイがお守りを貸してくれた。動物の牙を使ったネックレスだ。かなり大きな猛獣の牙に見えた。

「ジャガーの牙だ。僕の先祖から伝わっている家宝だ。だから無くさないでくれよ。帰ってきた時、返してもらうからな。それから、もし追い剥ぎとかに遭ったら、これを見せてやれ。きっと君を守ってくれる。」

 マイロは迷信を信じない男だった。しかしモンロイが家宝を貸してくれるのだから、無碍に断ることが出来なかった。それをチャパに見せると、驚いたことに医学を修めている若者が、ネックレスに向かって手を合わせてお祈りした。マイロは彼が口の中で呟く言葉をなんとか聞き取った。

「雨を呼ぶ人、我らを守り給え。」

 マイロは民間信仰に興味がなかった。少なくとも、病気に関する迷信以外は関心がなかったので、このお祈りもすぐ忘れた。
 借りた車は大きめのSUVだ。あまり長期の旅行にはならないとマイロは思っていた。採取する昆虫の体内にいる原虫の研究だから、昆虫を死なせたくない。出来るだけ早く帰るつもりだった。
 一番最初の目的地はアスクラカンだ。商都なので、それなりに清潔な宿泊施設があるとガイドブックにあったが、サシガメは人間の住居の壁の中にいたりする。だから可能な限り宿のランクを落とした。費用節約も目的の一つだ。
 早朝にグラダ・シティを出て、昼前にアスクラカンに到着した。想像したより道路が整備されていて、快適なドライブだった。道の両側も家並みが続いており、ジャングルは見えなかった。時々目に入る緑色の広がりは、農地だとチャパが教えてくれた。果樹園が主だった使用目的だ。セルバ共和国は果物が美味しい。マイロもドライブの途中で道端の出店で果物を買って、飲み物代わりにした。その際に売店の周囲を飛ぶ昆虫も少し採取した。サシガメではないが、人や果物に留まって給液する虫たちだ。羽虫はすぐ死んでしまうので、スライドグラスに挟んだりして、ちょっと時間をくった。だが、それも想定内の時間使用だ。チャパもテキパキと作業に協力してくれた。医者になりたいのだから、彼はセルバ人としては珍しく真面目によく働く若者だ。マイロは彼との旅行が楽しいものになると期待した。だから車内で流す音楽はチャパの好きな曲で統一した。

「ドクトルの好きな曲は?」
「聞いて笑うなよ、僕はドイツのクラシック派なんだ。」
「はぁ?」

 アフリカ系のマイロの顔を見て、チャパが意外そうな顔で声を上げたので、マイロは笑ってしまった。

「勿論、先祖の音楽も好きさ。だけど、クラシックの方が気分が落ち着くんだよ、僕はね。」

 それでも2人でラジオの音楽に声を合わせて歌いながら、運転を続けた。
 アスクラカンの街はグラダ・シティほど都会ではないものの、賑やかで活気に満ちていた。住民は殆どメスティーソで、マイロの肌の色は少し目立った。敵意はない視線を感じながら、彼はドライブインと思われる店に休憩するために入った。客は男性が多いと思った。するとチャパが囁いた。

「近くの工場の従業員の行きつけの店みたいですよ。同じ服を着た人が多いです。」

 確かにそんな雰囲気だった。通りすがりのドライバーもいる様だが、他所者が少ないのか、視線を感じてしまった。店の従業員がチャパに向かって注文を聞いた。チャパがマイロを見たので、マイロは任せるよ、と言った。それでチャパが「お勧め」を聞いてくれて、鶏肉の煮込みとパンでお昼を食べた。隣のテーブルの男が話しかけてきた。

「グラダ・シティからかい?」
「スィ。今夜はここに泊まるけど。」
「だったら、晩飯はセントラルへ行った方が良いぜ。あっちの方が色んな店があるし、酒も飲める。」
「グラシャス。」

 マイロは風土病のことを聞きたかったが、控えた。少なくとも食事を終える迄は穏やかに過ごしたい。ところがチャパが携帯の画面を出して、その男に見せた。

「この街でこんな虫を見たことありますか?」

 サシガメの写真だ。男が顔をしかめて画面を睨んだ。

「どこにでもいそうな虫だな。この虫がどうかしたか?」
「家の中にいたりします?」
「普通にいるだろ?」

 男が胡散臭そうに視線を向けてきたので、マイロは仕方なく大学のI Dを出した。

「昆虫の研究をしているんです。正確には、昆虫が媒介する病気の研究です。」

 男が彼をジロジロ眺めた。

「あんた、医者?」
「医者と言えば医者ですが、研究専門です。治療はしない・・・」
「それじゃ、ここじゃなくて、アスクラカン市民病院で聞けよ。この街で一番良い病院だ。ちょっと金が要るけどな。」

 するとどこかの会社の制服らしき繋ぎを着た男が話しかけて来た。

「俺らの会社の産業医が近所に診療所を開いている。そこへ行ったらどうだい?」

 それは耳寄り情報だ。町医者の方が大病院の医者よりシャーガス病の情報を持っていそうだ。マイロは医者の名前を聞いてみた。

「ドクトル・アキム、ボリス・アキムってロシア人の医者だ。ロシアから来たとは聞いていないが、ロシア人だ。」

 すると別の男が言った。

「俺はポーランドから来たって聞いた。」
「ノ、ドイツからだって言ってた。」
「嘘だろ?アメリカ人だぜ。」

 店内が賑やかになり、マイロはチャパを見た。チャパが肩をすくめた。グラダ・シティの酒場でもよく見かけた光景だ。この国の人は他人に無関心なふりをするが、一旦火が着くとお節介になる。そして質問者の存在を忘れて自分が正しいと主張を始めるのだ。

「ボリス・アキムって医者なんですね?」

 マイロが大声で尋ねると、口々に喋っていた男達が全員揃って、「スィ!」と怒鳴ったので、可笑しかった。


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