2023/02/22

第9部 セルバのアメリカ人      8

  テオドール・アルストはカフェ・デ・オラスのテーブル席でグラスに入った冷たいグァバジュースを前に本を広げていた。かなり前に着いた様だ。マイロが声をかけると、座ったままで向かいの席を手で示した。

「昼間はランチに行けなくて申し訳ありませんでした。」

とマイロは謝罪した。アルストは肩をすくめた。

「こちらがいつもの作業の流れに貴方を誘っただけです、気になさらぬよう。」
「実は、この店でランチを食べたんです。」

 マイロは昼間の不愉快な体験を思い出しながら言った。

「正直に申せば、今朝貴方にシャーガス病の治療法を研究して欲しいと言われて動揺しました。僕の専門は防疫の方なので・・・」
「ああ・・・」

 アルストが申し訳なさそうな表情になった。

「すると俺は貴方に的外れな要求をしてしまった訳ですね。」
「お互いに初対面でしたから、僕の専門分野が何なのか貴方がご存知なかったのは、仕方がありません。ただ、その時はちょっとモヤモヤした気分になって、貴方のお誘いを蹴ってしまったんです。だが・・・」

 マイロはちょっと急いだ。今の会見がその件に関することだと誤解されたくなかった。目的は別にあるのだ。

「僕が貴方にもう一度お会いしたいと思ったのは、その件ではないんです。」

 彼は無意識にテーブルの周囲に目を配った。店内の客は昼時と違って、早い時間に仕事を終えてのんびりしている年配者が多かった。オフィス街のカフェの多くは夕刻には閉まるので、その日最後のお茶を楽しんでいる雰囲気が漂っていた。

「昼飯を食べる店を探して歩いている時に、アメリカ大使館の人間に声をかけられて、この店に誘われたんです。」
「大使館の人間?」
「ダニエル・ウィルソンと名乗り、身分証も見せられました。」

 マイロはアルストの表情を伺ったが、相手は聞き覚えのない名前を聞いたと言う顔をしただけだった。

「最初は、僕が先日オルガ・グランデで強盗被害に遭った件で声をかけて来たのかと思いました。しかし道で偶然出会ってそんな話をする筈はないでしょう。」
「偶然ではなかったのですか。」
「多分、大学から尾行して来たのだと思われます。彼は僕が貴方に会ったことを確認して来ました。」

 アルストの顔から人懐こい表情が消えた。真面目な顔で彼はマイロを見た。

「俺はあまり本国の政府から好かれていないんです。理由は言えない。申し訳ないが、理由を聞けば貴方も本国に帰れなくなる可能性があります。」

 マイロは戸惑った。

「それはどう言う・・・」
「医学部で俺の話をどうお聞きになったか知りませんが、俺はアメリカからの留学生や客員講師達から出来るだけ距離を置いています。彼等に迷惑をかけたくないのでね。」
「何故です?」

 マイロはテーブルの上に身を傾けた。

「ウィルソンは、貴方が僕にセルバへの帰化を誘っても話に乗るなと言いましたが・・・」

 アルストがクスッと笑った。

「そんなことを言いましたか、アイツらは・・・」
「アイツら?」
「俺が怒らせた連中です。俺がセルバに帰化したのは、愛する人々と一緒に暮らしたかったと言うだけの理由です。しかし、連中はそう受け取らなかった。俺が祖国を裏切って祖国に不利な情報をセルバ政府に流したと思い込んでいるんですよ。」

 マイロは暫くアルストの顔を見つめた。遺伝子分析に非常に優秀な才能を持っているのに無名の学者・・・もしかすると、政府関連の施設で働いていて、国家機密を扱う仕事をしていたにも関わらず、外国人と恋に落ちて国外に出てしまったと言うことなのか? 
 そう言えば、アルストの助手が言っていたな、「奥様が軍人なので」と。アルストは国家機密を扱える部署にいたが、セルバ共和国の軍人と恋に堕ちて亡命したのか?

「安心して下さい、俺は貴方を誘うと言う気はありません。貴方が勝手にセルバを気に入って、住み着きたいと思われるのは勝手ですけどね。」

 アルストがウィンクした。マイロは思った。恐らくアルストに近づくアメリカ人は大使館から似たような忠告を受けているのだろう。祖国を裏切った男と親しくするな、と。
 マイロはアルストに尋ねた。

「ドクトル、貴方は今幸せですか?」

 アルストが微笑んだ。そして力強く答えた。

「スィ!」


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