2023/02/21

第9部 セルバのアメリカ人      5

  ダメージを受けた細胞を修復するにはiPS細胞の研究が有望だろう、とアルストは言った。マイロの専門ではない。マイロは予防の観点から研究をしているのであって、治療は別の分野だ。彼は黙り込み、そのまま歩いて大学の駐車場に到着した。アルストは中古の日本車から着替えが入っているらしいバッグを取り出した。

「研究室で着替えてきます。キャンパス内のカフェでランチにするので、良ければ来て下さい。生物学部の他の教室の学生達も集まって来ますよ。」

 虫の研究者もいると言うことだったので、マイロは再会を約束して一旦アルストと別れた。医学部迄距離があるので、図書館で時間を潰した。スニガ准教授の「セルバの森の妖精達」とロマンティックな題名の書籍を見つけた。棚から取り出して開いて見ると、トカゲ類と両生類の写真集だった。昆虫に関する書籍もあったが、原虫はなかった。防疫学は医学部の図書館の方へ行った方がありそうだ。
 結局昼食会はパスしてしまった。スペイン語は堪能だが、現地の若い子達が繰り出す早口の現代語にはついていけない。
 ふと思いついて考古学部のケサダ教授の研究室へ電話をかけてみた。助けてくれたお礼がまだだった。しかし電話に出たのは秘書と名乗る男性で、教授はまだオルガ・グランデにいると言うことだった。
 仕方なく、一人で食事する場所を探して大学の外の商店街を歩いていると、一人の開襟シャツを着た中年男性が後ろから近づいて来た。マイロの横に並ぶと、「ハロー」と声をかけて来た。

「国立感染症センターから出向しているマイロ博士ですね?」
「そうですが、貴方は?」
「アメリカ大使館の職員のダニエル・ウィルソンと言います。」

 歩きながら彼はポケットから財布を出し、名刺を取り出した。

「お昼はもう済まさせれましたか?」
「いえ、まだ・・・」
「良ければ、あの店で一緒にいかがです?」

 男性が指差したのは「カフェ・デ・オラス」と書かれた看板の店だった。マイロが知っているビルの1階に構える店だ。文化・教育省が上階にあり、職員食堂みたいに昼間は賑わっている。勿論一般の客も気軽に入れるし、マイロも既に何度か利用していた。タコスが美味い店だ。
 店内に入ると、お昼の混雑時だったが、運よくテーブルが一つ空いたところだった。そこに席を取って、タコスとコーヒーを注文した。向いに座ったウィルソンを改めて見ると、よく日焼けした南欧系白人で、団子鼻はボクシングで打たれたのか、少し歪んで見えた。微かに傷跡があった。それでマイロは尋ねた。

「失礼を承知でお尋ねしますが、その鼻はボクシングで? それとも喧嘩ですか?」

 ウィルソンがニヤッと笑った。

「流石にお医者さんだ、イエス、これはボクシングです。骨を折られまして・・・それでも綺麗に治った方ですよ、なかなか気づく人はいません。」
「それで・・・どんな御用件です?」

 強盗被害に遭った報告を大使館にしておいたが、そんな用件に見えなかった。第一街中で偶然見かけて声をかけてくるような案件ではない。

「用ですか? そうですね・・・」

 ウィルソンは席の周囲に目を配った。

「貴方は最近、生物学部の遺伝子学者テオドール・アルストにお会いになりましたか?」
「最近、ええ、1時間前に会いました。東パスカル公園の池で。」
「池?」
「彼は学生達とカエルの捕獲をしていたんです。」

 ほうっとウィルソンが言った。

「カエルの捕獲ね・・・」
「同僚の別の准教授の代理だったようです。」
「何か言葉を交わされました?」
「僕の研究に遺伝子分析を使わせてもらおうと声をかけたのですが、やんわりと断られました。僕は防疫の研究をしていますが、彼は治療方法の研究を僕に期待したんです。でもそれは僕の専門分野ではない・・・」
「研究の話だけですか?」
「他に何か話すことがありますか? 僕は彼のことを知らないし、彼も僕のことを知らない。趣味の話なんて出来やしませんよ。」

 注文した料理が運ばれて来て、2人は暫く黙って食べた。ウィルソンは食べるのが早かった。マイロがまだ半分食べないうちに、平らげた。彼は口元と指を紙ナプキンで拭ってから、マイロに言った。

「もし、アルストがセルバへの帰化を誘っても話に乗らないで下さい。」
「どうして彼がそんな誘いを僕にかけるのです?」

 マイロが面食らうと、ウィルソンは「気にしないで」と言い、テーブルの上に2人分の代金を置いて、「ではさようなら」と言い、店から出て行った。

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