スラム街へ行くと言うと、チャパはあまり気乗りしない表情だった。だからマイロは提案した。
「僕が車から降りたら、君はそのまま市街地へ戻って、陸軍病院でシャーガス病の患者がいないか訊いてくれないか?」
「先生一人置いて行くなんて出来ません。」
「僕は医者の所にいるから、多分安全だと思う。帰る時は連絡する。」
チャパは結局一緒に行くと言った。万が一マイロに良くないことが起これば、彼が責任を問われるとわかっていたのだ。
スラム街は石の住居に板屋根を載っけたような小屋が建ち並ぶ斜面の集落だった。煉瓦造りの家もあったが、それもかなり年季が入っていた。だがマイロが知っているゴミだらけの歩道や落書きだらけの壁は殆どなかった。所在無げに家の前で座っている男や、井戸らしき場所で集まって喋っている女性達が、目慣れぬ車の侵入に注目したが、襲ってくる気配はなかった。
ペンディエンテ・ブランカ診療所は看板を出していたので、すぐにわかった。白っぽい石の坂道の登り口にあるコンクリート製の建物で、駐車場も4、5台分あった。すぐ裏手の小さな家は医者の住まいかも知れない。住民の家には見えなかった。
マイロとチャパが車を降りると、診療所のドアが開いて、メスティーソの中年男性が顔を出した。マイロは「ブエノス・ディアス」と挨拶した。男性が頷いた。
「ブエノス・ディアス。貴方がドクトル・マイロ?」
「スィ。ドクトル・メンドーサですね?」
2人は握手した。マイロはチャパを紹介し、診療所の中に案内された。看護師らしい中年のメスティーソの女性が業務開始の準備をしていた。歩きながらメンドーサが尋ねた。
「シャーガス病の研究をなさっているのですか?」
「スィ。実は、セルバ共和国ではシャーガス病の発症例がないと聞いて、何故なのだろうと調査に来たのです。実際、グラダ・シティでもアスクラカンでもエル・ティティでも、症例があったと言う話を聞けませんでした。病気を媒介するサシガメすら見つけられなかった。だから、噂通り、この国にシャーガス病が発生していないのだと思い始めていたのですが・・・」
メンドーサが診察室のドアを開いた。
「医療関係者に会って話を聞かれましたか?」
「スィ。グラダ大学医学部で研究者達と話をしましたが、彼等は発症例がない病気に無関心な様子でした。アスクラカンでは町医者の話を聞きましたが、やはりシャーガス病の患者を診たことはないと言うことでした。」
マイロとチャパはメンドーサが指した椅子に座った。メンドーサは自分の椅子に座り、棚からカルテを綴ったものを数冊出した。
「私はここで仕事を始めて10年になります。シャーガス病のことは勿論学生時代に習いました。この国の医者は免許を取るとほぼ全員がメキシコや外国の病院へ研修に出ます。ですから、みんなシャーガス病のことは知っています。だが帰国してから実際に患者に出会う医者は殆どいないでしょう。」
「何故です?」
マイロは身を乗り出した。
「何か特別なことでもあるのでしょうか? サシガメの種類が異なるとか・・・?」
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